(7)
 赤鬚は向き直ると、弓を落として剣を引き抜いた。彼のそばで、壁にぴたりとはりついて立っていたのは、アルゴスのアルクェルだった。身につけているのは腰布だけで、しなやかな体からは川の水をしたたらせていた。「裏切り者!」ジェラズが叫んだ、彼の声は、上層階から聞こえてきた戦士たちの叫び声と疾風のうなりの混じった騒音でかき消された。彼はアルゴス人に跳びかかり、黒い矮人族の流れの真っ只中で取っ組み合った。
 ふたりは同時に足をすべらせて、無数の体の上をころがり、斜面を落ちていった。そして気がつくと、赤鬚は脚を傾斜路に投げ出して仰向けになっており、アルクェルが彼の樽胸の上に座っていた。力強い握力でジェラズの手首は壁面の低い張り出しに押さえつけられ、短刀がアルクェルの指の間から飛び出した。彼がホルガーから奪ったその刃物は、魔法のように現れると、相手の鼻先で揺れた。その間もふたりは、四方から押されて黒い大群に翻弄されていた。
「休戦だ、ジェラズ」とアルクェルが叫んだ。「おれは自分の自由意志でここに来た。それに、おまえとは戦いたくない。こいつらに踏み殺される前に、何とか言え!」
 ジェラズは、どちらにしても死は訪れるだろうと気づき、うなるように同意の言葉を吐いた。アルクェルは素速くころがってどくと、矮人たちを押しやった。そして――ジェラズには意外だったが――柄を先にして、短い剣を投げ返してきた。
「それでは――ホルガーは間違っていたのか!」
「ああ、あいつは間違っていた」アルクェルはすぐに言葉を返すと、もっと安全な場所に相手を誘導した。そこはドームの陰で、陸橋のアーチの下だった。「イトゥルーのことは知っていた。確かに。おれが知っている暗黒諸王国に関する十指を越える話のひとつとしてな。しかし、自分たちが呪われた抗争みたいなものに飛び込むことになろうとは、予想だにしなかったぜ!」
「おまえは、アルムリックについて弁をふるうひまがあったら、伝説についてもっと喋ることができたはずだ」ジェラズが毒づいた。「ミトラ神の悪鬼どもにかけて――おれがおまえの肩をもってやったものを」
「何を話せばよかったんだ――迷信深い乗組員に、奇怪な土地の暗黒の物語をたっぷり聞かせるのか?」アルクェルが問いただした。矮人族が上の陸橋から続けざまに落下してきたので、ふたりは低い障壁に身を隠しながら、ひしめき合う薄暗がりをかきわけて前進した。アルクェルが続けた。「おれにとってイトゥルーは、子供を怖がらせるための昔話の一部でしかなかった。トゥルタルは――そう、プントの方言で『川岸の城砦』と言う意味なんだ。おれは道しるべだと思っていた。それに、おれに話す機会をくれたか?」
「確かに」ジェラズは思い出しながら言った。「だが、おまえはわれわれと一緒に捕まってない! どうしてここにいる?」
「その必要があったからだ」アルクェルは吐き出すように言った。彼が視線を上げて、薄明かりに照らされて動き回るステイジア人僧侶の姿をねめつけたとき、その緑の両眼が細められた。「おれはあいつを知っていた。アルムリックやおまえたちの一隊に加わるよりずっと前からな。今あいつと向き合うか、それともこれから一生、行く先々であいつにつきまとわれるか、どちらかだ。おまえたちが捕まった夜に彼を見かけたとき、わかったのだ。おれが……」
 ふたりは同時に首をすくめると、壁に身を押しつけて踏みこたえた。風が頭上でうなりをあげ、十人余りの小さな体がまわりに落下してきた。
「クロム!」赤鬚のジェラズは神の名を口走った。「まだ、矢の一本もやつに触れていないんだぞ! それでも――おれたちについて来る必要があったとは! なぜだ?」
 アルクェルは歯を見せて笑った。日焼けしたその顔は、松明の光を受けて冷笑を浮かべるガーゴイル像だった。「おまえたちが密林でその愚図な体をなくしていないか確かめるためさ。おれは日没からずっと水につかったまま岩の間に隠れて、やつに見られないように――あるいは、おまえたちの矢を食らわないようにして、水から上がる機会を待っていたのだ。
 喧噪をかき消すような声が、中央の塔の最上階から聞こえてきた。「その巣穴から出てこい、ジェラズ。出てきていっしょに戦え、臆病者!」
 ジェラズは激怒で気色ばみ、あざけりの声がした方向に向かって、素手で隠れ場から飛び出しそうになった。アルクェルが彼の革胴着をつかんだ。「待つんだ、馬鹿。何もかもぶちこわしてしまうぞ。やつはまだ、おれがここにいるのを知らない。やつの魔力に限界はあるのか?」
 罵声を吐きながら、コス人はステイジア人の魔力について知っていることを残らずぶちまけた。アルクェルは両手を頭上の迫持の縁に置いて静かに立ちつくし、最上階で動きまわっている人影が自分たちに背を向けるのを待った。短刀は腰に巻いたぼろ布に差し込んでいた。
「自分の弓を見つけろ、ジェラズ」アルクェルが言った。「それから、部下たちに命じて、あの塔のまわりに間隔をあけて飛び飛びの位置につかせろ。おれがいる場所から顔をそらせるように、やつを攻撃させるんだ」
「何のために?」ジェラズが不平をもらした。「やつは胸壁からたっぷり離れているから、矢は弧を描いて頭上を越してしまう。やつにとっておれたちは歩の駒にすぎん!」
「そんなことはない、ジェラズ。おれたちはこの勝負で唯一の未知の駒だ。頼んだ通りにやってくれ。やつを手一杯にさせておけ!」そう言うと、アルゴス人は防壁を跳び越え、トゥルタル城の揺れ動く影の中に溶け込んだ。
 ジェラズは顔をしかめると、壁を背にしながらその場を離れた。ゆらめく松明の光が彼の弓を照らし出した。そのまわりでは、負傷してピクピク動く体が、中央の塔に向かってまだ這い進もうとしていた。アルゴスのアルクェルは矮人の群を乗り越え、かき分けて進んだ。ステイジア人が振り向いて彼らをなぎ倒そうとしたとき、彼は全力で小さな塔のうしろに回り込んでおり、曲がりくねった暗い街路をジグザグに走っていた。そして坂を登り、長い屋根の上に出た。彼と上層階の敵との間には、礼拝塔の列があった。
 百フィート離れた低い塔の外縁では、ジェラズと弓兵のひとりが首を伸ばし、僧侶に向けて矢を射た。矢が宙に放たれるやいなや、ふたりは反対の方向に走り、仲間を探した。ステイジア人は彼らをののしった。彼が報復として送った強烈な力は、飛矢を宙で阻止することができなかったからだ。彼は相手を打ち倒そうと狙ったのだが、標的はすでに消えていた。
 いっぽう反対側では、アルゴスのアルクェルが細い陸橋の上で釣り合いをとり、三ヤード離れた屋根の上に跳び移り、着地と同時に体を丸め、転がって止まった。黒い僧頭巾の男がその方向を向いたとき、彼は胸壁の影の下にいた。
 今や、トゥルタル城の外壁で揺れ動く闇と光の波のあいだでのかくれんぼうになった。

 (8)
弓兵たちは、次第に減っていく生ける屍たちの大群のあいだから矢を放ち、アルクェルのほうは、塔に向かってじりじりと進んでいった。
 イトゥルー族は、まだ彼らの餌食を追い求めていた。だが、彼らの数はかなり減少していた。動けない者が大勢いたが、そのほかの者は、異形と見えるほどの不具者もほとんど無傷の者も、痛ましいほどの愚直な執念で前進を続けた。ステイジア人僧侶は疲れもみせず、まるで嵐の神のように次々と攻撃した。
 だが、彼の魔力が得意とするのは、ひとつの激しい盲目的情動に突き動かされている者たちのあいだに、大混乱を引き起こすことだけのように見えた。動機に駆り立てられ、ヤマネコのような俊敏な反射能力に助けられて動く、ひとりの人間に対しては、役に立たなかった。
 アルクェルは塔の傾斜路にたどり着くと、移動するときに弓兵たちに手を振って合図した。彼とは反対側の側壁で石弓がうなった。攻撃者を殺そうと躍起になったステイジア人は、その方を向いた。そのすきに、アルクェルは斜面を駆け上がった。アルクェルは傾斜路の間隙にたどり着くと、決死の跳躍を敢行した。彼の体は白い閃光となり、闇を切り裂いて暗黒の塔に飛んだ。尖塔のまわりの異なる場所から、一本また一本と矢が飛来した。その間に、アルクェルは壊れた傾斜路の凸部をつかみ、瞬時に体を引き上げた。
 はるか下では、ひとりの弓兵が見えない力で壁にたたきつけられ、その上から一塊になった矮人の体が激突した。アルクェルが最上階にたどり着いたとき、僧侶がくるりと振り向いた。うなりをあげる疾風が、塔の縁で空気を千々に引き裂いた。しかし、アルクェルは脇に跳びのいて、射程外にいた。彼の両足が低い胸壁を蹴った。そして――あたかも強大なぱちんこから打ち出されたかのように――アルクェルは、ステイジア人の突き出された手をかいくぐって、まっすぐ跳びかかった。ふたりの男はもろともに塔の屋根の上に落下した。
 アルクェルの短刀が相手の肋骨のあいだに沈んだ。しかし、彼の下になった体は信じられないようなくねり方をし、人間にしてはしなやかすぎる動きで彼にまとわりついた。もはや黒い僧衣の下に男はおらず、鱗のはえた輪がのびてアルゴス人の体のまわりでとぐろを巻き、三角の頭が頭巾の下から彼に向かって身の毛もよだつ大口をあけた。眼前の生き物から発せられた爬虫類の悪臭に見舞われて、アルクェルの鼻孔が広がった。
 彼の片手が生き物の丸い首を捕らえ、その顎が顔に迫るのをかろうじて食い止めた。そして、もう一方の手に握った短刀を突き刺した。とぐろが胸のまわりで絞まった。彼は息を吸うと、彼の胸郭をつぶしかねない凄まじい圧力と戦った。
 筋肉が震えるほどに渾身の力を振り絞って、アルクェルは立ち上がった。彼は息をつぐことができず、まだ人間の面影を残した巨大なトカゲを持ち上げると、血液が首とこめかみで鉄槌のように響いた。両足を踏んばりながら、彼は胸壁に半ば倒れ込むようにもたれかかった。下から叫び声があがって、石弓の矢が三本、化け物の背中に突き立った。ジェラズと彼の部下はついに標的を捕らえたのだった。
 太い首がうしろに反り返り、逆立った鱗がアルクェルの手に食い込んだ。彼は短刀を振り上げて力強い必殺の弧を描いた。もう一方の腕が支えを失った。牙をむきだした頭は、体から切り離されて飛んでいった。アルクェルは体をしめつけていた死の抱擁が解けるのを感じ、半ば気を失うように膝をつき、武器を落とした。
 彼は目から汗と血を振り落として頭をはっきりさせた。見つめる視線の先には、人間に似た生き物の頭のないむくろがうずくまっていた。その体は四肢があるが、鱗におおわれていた。人というより爬虫類に近かった。この死の使者を送り出すために、ステイジアは失われた過去のどのような地獄に手をのばしたのだろうかと、アルクェルは思いを巡らせた。
 アルゴス人はよろけるように立ち上がった。彼の視線は眼下に広がる紺青色の城砦を見渡し、小さなイトゥルーたちが彼を見上げているのに気づいた。低い塔の屋上には、パチパチと燃える松明に照らされて立つジェラズと生き残った三人の部下の姿があった。彼らの背丈と、周囲の建物に投じられた影法師は、まわりとは不釣り合いな異質の存在になっていた。
 アルクェルは黒い僧衣をつかむと、化け物の体を塔の胸壁に押し上げ、闇の中に落として、頭部のあとを追わせた。彼が螺旋状の傾斜路を下りてゆくと、矮人族によって不気味なふたつの戦利品が低い城壁に向かって運ばれ、スティックス川の暗い水の中に落とされるところだった。これが終わると、城砦の矮人たちはその場にくずおれた。ついに死を見つけたのだった。
 アルゴスのアルクェルと弓兵たちが旅を続けるために貝殻型の舟の何艘かを調達したときには、玩具の城砦の住人の痕跡で残っているのは、塵の山だけだった。
 ジェラズはトゥルタル城の暗い沈黙の城壁を見上げた。今は河岸の明かりに縁取られた輪郭だけしか見えなかった。「クロム! おれたちがこんなに大勢の兵を失っておらず、もっと得るものがあったのなら、おれはこの戦いに加わった運命を忌まわしく思わなかっただろうに。一日の血まみれの仕事が終わると、傭兵としておれは満足感を味わうのだ!」
 紐でつないだ鉢型の舟に乗り込んだとき、アルクェルは不思議な猫のような笑いを浮かべ、松明の明かりを受けて緑に光る目で赤鬚を見やった。ジェラズは驚いて顔をしかめた。
「舟をよく見てみろ、ジェラズ」アルクェルが言った。「イトゥルー族は金属職人だった。この舟は楯職人にとってすごい価値があるかもしれないぞ……」
 ジェラズは炎のような色の顎髭をひねりまわして、この川やその秘密に関するアルゴス人の知識や、彼が自分たちの中で演じた役割について、まだあれこれ考えた。それから、彼はもやい綱を解くと、視線を河岸に向けて身構えた。

 アンガン族の将軍イロンゴは川の縁に立っていた。彼は槍を持ち上げ、それから突き刺した。穂先は下向きで、足元の地面に刺さった。彼の声が部下の戦士たちに向けて轟いた。
「行かせろ」彼は命じた。「われらはステイジア人との協定を守る。われらは彼らといざこざを起こさん!」
 巨人が捨てた腕輪か何かのように、二列に連なった貝殻型の舟は渦にもまれながら下流に向かった。舟にしゃがんだ五人の男たちは、武器を置き、松明を高く掲げて振った。イロンゴは筋骨たくましい腕を挙げて、無言の挨拶を送った。そして五人は闇の中に消えた。

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