(3)
 彼らは自分たちが落ちた罠の中であがき、助けになるかもしれない思いつきを求めてあたりに視線を投げた。その間をとらえてアルクェルが喋った。「ひとつだけ可能性がある。それも夜の風しだいだが。帆を造るんだ、帆船を動かすために、棹も綱もあるし、外套もたっぷりある」
「そのとおりだ、ミトラ神の悪鬼どもにかけて!」ジェラズが大声をあげ、ももをピシャリと叩いた。それで舟が揺れて、部下たちを死ぬほど怖がらせた。「だが、海に行ったことがあるのは、ここではおれひとりだぞ! おまえは帆を造るのを手助けできるか?」
「ああ」アルクェルが答えた。「海に行ったことはないが、シェム人の帆船でスティックス川を行き来したことがある」
「その男の縄を切ってやれ」ジェラズが命じた。ホルガーがまた疑念をわめきたてはじめた。アルクェルが縛られることになったのは、この男と、その疑い深い弁舌のせいだった。別の男も不平を言った。赤鬚の顔がまた真っ赤になった。「そいつを前に来させろ。おれの剣で守ってやる。すぐやれ。さもないと、女神マーハにかけて、舟をひっくりかえして、この行き詰まりを終わらせるぞ!」
 このときまでには戦士たちはおびえきっていて、彼の命令に抵抗できなかった。彼らの頭上には暗い大空があり、見えるのは針先のような星々だけだった。下にはおぼろに光る未知の死があった。いまや潟湖は昇る月の縁のように明るく輝いていたのだ。この不気味な場所から蛇型の舟を押し進めてくれそうなものは、何であれ最優先だった。
 若い捕虜は自由の身になると、恐る恐る舟の中程まで押し進み、そこでジェラズといっしょになって棹をしばり、帆を組み立てた。彼らが水深を測ったときに、なぜだれも棹を失ったり、ことによると命まで失ってしまったりすることがなかったのか、彼らには分からなかった。もしかしたら――作業をしながらジェラズが言い出したように――彼らの入れた探りが下にいる何ものかの目を覚ましてしまったのではないか、ということ恐れていた。
 帆は長い間だらりと垂れ下がっていた。月が高く上がり、水面はさらに明るくなった。突然、ホルガーがキーキー声で警告を発し、潟湖の縁を指さした。
 小さな黒い頭が川面の円周に沿って次々と現れていた。やがて彼らは河岸を身軽にどんどん登ってゆき、小さな黒い人が形作るいくつもの裸の塊となって、川面からのたくり広がった。彼らは無理と思えるような崖にしがみついて、お互いの体の上を乗り越えて登り、上へ上へとピラミッド状になっていった。全周囲で何百人もが上がってゆき、河岸は壁面を這うギラギラ光る形でいっぱいになった。
「このことを知っていたか?」赤鬚のジェラズがアルクェルにたずねた。不思議な光景に彼の肌は総毛立っていた。水から這い上がってくる者たちは死者の目をしていたのだ。
「いや、ジェラズ」アルクェルが相手をしっかり見て答えた。「知っての通り、この土地に関するおれの知識は地図から得たものだ。それからシェムやステイジアで盗んだ巻物から得たものもある。こうしたものに書いてある情報はごくわずかだ。道や境界の目印は網羅しているが、危険については書いていない。おれにわかるのは……」
 彼の言葉は赤鬚の叫び声で断ち切られた。帆が微風を受けてふくらみ出したのだ。舟は前進しはじめ、ジェラズはそれを出口に向けて導いた。水面は耐えられないほどにまぶしく輝き出し、月光を受けて不気味に泡立った。崖の上では川が解き放った生き物たちがじっと立って、無言で舟を見つめていた。
「さて出口だが――どこにつながっているか知っているのか?」赤鬚がふたたび捕虜のほうを向いた。
 アルクェルは月を見つめ、それから太陽が沈んだ方角を見た。「われわれは依然として北に向かっている。これはおそらくスティックス川の同じ支流だ。
「いま言ったように、おれが知っているのは地図が示していることだけだが――それによると、この支流をたどって行けば南東の砂漠の近くに出られるので、そこから東に旅することができる。そうなれば、北行きの隊商がわれわれをこの土地から連れ出してくれる。この土地の住民はこの先ずっとよそ者に対して敵意をもつことだろう。おい、風を逃がしてるぞ……」
 ジェラズは間に合わせの帆をまっすぐにした。今や舟は周りを囲む絶壁にくっきりとあいた切れ目を――幅四十フィートほどの暗い峡谷を指していた。舟が勢いよく進みはじめると、彼は部下たちをにらみつけた。彼らは座ったまま凍りつき、頭を上に向けて、深淵の子らが立っている場所を見つめていた。
「ミトラ神の悪鬼どもにかけて、おれはおまえら全員の分も考えなければならんのか?」彼はどなった。「自分たちの弓のほうを見ろ――やつらはおれたちをここにとどめようとするかもしれんぞ!」
「それはない、ジェラズ」アルクェルが口をはさんだ。彼は風をはらんだ帆のせいで、中腰で立っていた。「イトゥルーたちが武器を持つとは考えられて――」
「こいつはやつらを知っているぞ!」ホルガーがキーキー声で言い、前に行こうとする彼を短刀で指した。「これは罠だ!」
 赤鬚は男にその場を動かないよう身振りで合図したが、ホルガーは聞き入れなかった。「止めるな! これは罠だ。もしおれが死ぬのなら、ここにおれたち連れてきたこいつが先に死ぬんだ!」ほかの男たちも賛同の叫びをあげた。そして、ジェラズが不動のまま立ちつくして、アルクェルと男たちを交互ににらんでいると、ひとりの男が大胆にもジェラズの肩をつかむことすらした。
 ホルガーは決断を待たず、短刀でアルクェルに突きかかった。そのあと起きたことはあまりに速すぎて、目でとらえることができなかった。太った男は身を翻し、自分の短刀で腕を切られ、ジェラズの上に倒れこんだ。いま大型の手漕ぎ舟は光る潟湖から半ばまで出ていた。舟が多量の水をかぶり、危険なほど水に浸かったその時、アルクェルは泡立つ液体の縁を越えて峡谷の暗い波の中に飛び込んだ。
 ふたりの弓兵が逃亡者の方向に石弓の矢を放ったが、その結果は川面の上にも下にも現れず、舟はゆっくりとだが否応なく前に進んでいった。部下が兜で水を汲み出している間、赤鬚のジェラズは火のような鬚の中に悪態を吐き出しながら座っていた。過ぎた日々に、敗北、疑念、そしてあの密林から来た逃亡者に対する部下たちの迷信深い嫌悪が反目を生み出してきたことを、彼は思い返していた。そして、彼が戦闘兵と弓兵の若者たちに教えたことすべてを思い出していた。さらに思い出すのは、彼のどの部下を三人寄せ集めても、アルクェルはたぶんそれより優秀だっ

 (4)
たという事実なのだ……

 小さな人影の声が、小鈴の音のように上がってくる。イロンゴが座っている場所から見ると、舟は輝く銀の鏡の縁で釣り合いを保っている深紅のサソリに似ていなくもなかった。
 イロンゴはあたかも昏睡から目覚めはじめているかのように体を震わせた。対峙する相手の盲目の凝視の前で落ち着きを取りもどして、彼は言った。「あの舟はステイジア人の乗り物だ――おまえたちの聖なる舟の一艘だ。これが、われらがやって来て、この男たちを生け捕りにするよう命じられた理由なのか? 密林でこいつらを捕らえたとき、彼らは舟を置き去りにしていたが……」
「さよう」ステイジア人の僧侶はゆっくり言った。「いまでも舟はわが土地への帰路にある。彼らは舟を盗んだ咎で死ぬのだ。だが、それは大して重要なことではない。まずわれらは、深淵の民について話さねばならん。その小さな人々がだれなのか知っておるか?」
 半ば忘れられた記憶がイロンゴの頭の中で呼び起こされ、彼は身震いを押さえた。もう一度、彼は子供になり、仲間たちといっしょに火のまわりに群れ集って、ふしくれだった年寄りのまじない師が語る物語に耳を傾けていた。ひとつの言葉が彼の唇から発せられた――アルクェルが口にした名前――「イトゥルー!
「小さな黒い民だ」彼は続けた。「言い伝えでは、彼らは南部砂漠の彼方から来て、スティックス川のひとつの島に城砦を建てた。おまえたちの種族が彼らを追い出したので、彼らは奪還しようと企ててセト神の侍者のひとりを殺した。言い伝えでは、その僧は死の間際に彼らに生ける屍の呪いをかけたという。それでおまえたちの戦士は彼らを打ち負かし、全員を銀の湖に投げ込んだのだと――伝説はそう伝えている――何百年も昔の話だ……」
「……何百年も昔」僧侶がオウム返しに言った。そして彼の声は怒りで高まった。「彼らにかりそめの命をもたらすことのできるものは、ステイジアから届けられる生け贄だけであろう。わかるかな? 忌まわしいアルムリックに付き従ってきたあのへまなおせっかいどもが、はからずもこの生け贄を捧げたのだ――聖なるステイジア人の舟からな!」
 イロンゴが身をこわばらせた。「よくわかる。遠い昔に死を許されるべきであった彼らは、いま自分たちの城砦にもどろうとするだろう。もしおまえの考えているのが、その安息の場所に彼らが近づくのを阻むために、われらが汚れた戦いに加担するだろうということなら――」
「待て。先走るな」僧侶の声は鞭のようだった。「確かにそう目論んでおる。しかし、おまえたちはそれに手を貸すことにはなっておらん。囚われ人どもだけがわしを手助けする。あるいは言語に絶する目に会うことになる。おまえの使命はすでに半ばまで達せられた。おまえはやつらが城砦から逃げないことを確かめさえすればよい。やつらはそこでわしに合流するのだ!」
「それはいい」イロンゴはうなずいた。彼はステイジア人の企てに賛成しかねたが、自分が巻き込まれないならば、妨げるつもりはなかった。自分の野生の国と暗黒の国との間のあいまいな関係が、このところしばらく不安定であるということを、承知していた。彼は続けた。「しかし九人の男たちから得られる手助けなどわずかなものだ。逃亡者アルクェルもまだ野放しだ」
 わずかの間、盲目的な憎悪がステイジア人の無表情な顔貌にあふれた。「おまえの部下の半分を送り出せ――今晩中に!」彼は険のある小声で言った。「やつを見つけろ。そうすれば、おまえの目方と同じだけの黄金をやろう。アルゴスのアルクェルめ、あの略奪者、あの冒涜的な知識あさりが! わしの息のある限り、なんとしてでもやつを狩り立ててやるわ――われらはほかに片を付けなければならんことがあるが――そうじゃ、もしおまえが明日の日没までにやつを生け捕りにしてくれば、報酬を二倍にしよう。そうすれば、やつをトゥルタルの城壁の中に入れることができる!」

「トゥルタル」赤鬚のジェルズがうめいた。その分厚い手は礼拝塔の曲線の上におかれていた。「あのでかい黒人の悪鬼どもがその名前をつぶやくのを聞いた。トゥルタル。だが、この代物は何でできているのだ?」
「鉄だ」とひとりの男が言った。
「石だ」と別の男が言った。「鉄にしてはざらざらしすぎる。それに、こんな大量の鉄をどこから手に入れることができたのだ?」
 彼らは理由もわからず島の城砦の中に閉じこめられたまま、ほとんど丸一日待った。だが彼らはさすがに戦士であり、脱出のことを考えていた頭が、午後になってやっと自分たちの不可思議な捕囚に対する疑問と好奇心に向いたのだった。
 トゥルタル城は沈黙を続け、紺青色の尖塔群と階層を晴れた大空に突き出し、その基盤の岩を洗う川にのしかかるように建ち、まるでその姿は流れの中央で座礁した怪奇な船のようだった。トゥルタル城にはいかなる直線も角もなかった。この城砦は、屋根、中庭、街路、迫持などが迷路となり渾然一体となって形作る、驚くべき曲線の洪水だった。静寂が城をおおっていた。そして男たちには、十二歳用の巨大な玩具に自分たちが入り込んでしまったような感覚がしていた。
 というのは、この不気味な要塞の大きさが大人用に建てられていなかったのだ。通路は戦士には狭すぎた。胸壁はやっと太ももに届く程度だった。アーチ状の小さな出入口は腰を曲げて横向きになれば通ることができるが、室内に入って天井の下では屈むか座るかしていなければならず、楕円形の小窓からは頭を出すことはほとんどできなかった。迫持の上の陸橋は猿にしか渡れないように見えるし、礼拝塔は小さな天幕ほどの大きさもなかった。こうしたこの世のものとも思えぬ効果をさらに際だたせているのは、全体の建造物が一塊の紺青色の物質から彫られたように見えるという事実だ。その材質は鉄のように強靱だが、石のようにざらざらで雨が刻んだ跡もあった。
「まるで型に流し込んでこのかたちにしたみてえだ」ホルガーが用心深く胸壁に近寄り、理屈づけをした。彼は上ってきた六、七階層を見おろしてから、無表情のプントの戦士たちが向かいの川岸に沿って並んでいる場所を見やった。彼らはその地点でトゥルタル城と同じ幅で平行に広がっている。城の西側も同じ理由で逃げ道はなかった――そして、コスの弓兵たちを城砦に連れてくるために使った吊り橋は切り落とされていた。

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