(5)
 カンダイヴは従うと見せ、やにわに呪文の音節を大声で唱え、自分の周囲に〈全能の守護球〉を生じさせた。
「さて、衛兵を呼ばせてもらおうか、トゥールジャン」と軽蔑的な口調でカンダイヴは告げた。「そして、きさまを水槽のなかのディオダンドたちにくれてやろう」
 カンダイヴは、トゥールジャンが手首につけている彫刻入りの腕輪のことを知らなかった。刻まれているのは最強の神秘文字で、あちゆる魔法に対する力場の緩和作用をもっていた。なおも護符から眼を守りながら、トゥールジャンは〈守護球〉のなかに踏み入った。カンダイヴの大きな碧眼がみひらかれた。
「街兵を呼ぶがいい」と、トゥールジャン。「彼らがはいってきたときには、われわれのからだは炎の線でハチの巣になっていることだろう」
きさまの(・・・・)からだが、だ。トゥールジャン!」とカンダイヴ侯は叫び、呪文を口ばしった。と、その瞬間、〈変幻虹しぶき〉の灼熱の光条が八方からトゥールジャンめがけてむちのようにふりそそいだ。カンダイヴはオオカミのように歯をむきだして笑いながら、その猛烈な炎の雨を見守った。しかし彼の表情はすぐさま狼狽に変じた。トゥールジャンの肌からほんの指の幅ほとのところで火の矢は消失し、灰色をした無数の煙のかたまりになっていた。
「うしろを向け、カンダイヴ」とトゥールジャンは命じた。「おまえの魔法も〈ラッコーデルの神秘文字〉の前では用をなすまい」しかしカンダイヴは壁についたバネに向かって一歩道んだ。
「止まれ!」とトゥールジャンは叫んだ。「あと一歩でも動いてみろ。〈虹しぶき〉がおまえをバラバラに切り裂くぞ!」
 カンダイヴはすぐに足をとめた。彼がやり場のない激怒にふるえて背中を見せると、トゥールジャンは足早に歩みより、カンダイヴの首の前に手を伸ばして護符をつかみ、もちあげて首から取った。それは掌のなかでうごめき、指のすきまからちらっと青いものが見えた。衝撃で頭がかすみ、ほんの一瞬、食欲な声がささやくのが聞こえた……。視界がはっきりした。彼は護符を小袋のなかに押しこみながら、カンダイヴからあとじさった。カンダイヴがたずねた。「もう、ふりかえってもかまわんかな?」
「お好きなときに」とトゥールジャンは答え、小袋の留め金をかけた。
 カンダイヴはトゥールジャンに気を配りながらさりげなく壁に寄り、バネの上に手を置いた。
「トゥールジャン、きさまの負けだ。きさまが呪文を一音節となえるよりもまえに、床がひらいて、きさまは深淵に落ちこむだろう。魔法でこれを防ぐことができるかな?」
 トゥールジャンは行動なかばにして止まり、カンダイヴの赤と金の顔を見すえた。それからおずおずと眼を伏ぜた。「うぬ、ヵンダイヴめ」といらだたしそうに言った。「裏をかいたな。護符を返したら、黙って行かせてくれるか?」
「護符を足もとに投げてよこせ」カンダイヴがほくそえみながら言った。「〈ラッコーデルの神秘文字〉もだ。そのあとで、どんな情けをかけてやるか決めるとしよう」
「〈神秘文字〉までも?」と、哀れっぽい調子を出しながらトゥールジャンがきいた。
「さもなくば、きさまの命だ」
 トゥールジャンは小袋のなかに手をつっこみ、パンデルームにもらった水晶球をつかんだ。それを引っぱり出すと剣の(つか)先に当てた。
「ほう、カンダイヴ。おまえのペテンは見破ったぞ。おまえはただ、私をおどかして降服させたいだけだ。あいにくだな!」
 カンダイヴは肩をすくめた。「それでは、死ぬがよい」彼はパネを押した。床がぱっくり口をあけ、トゥールジャンは深淵のなかに消えた。カンダイヴはトゥールジャンのからだを改めるために階下に急いだが、そこには何の跡もなかった。そしてカンダイヴ候はその夜の残りの時間を立腹ぎみで過ごし、ワインをすすってはむっつり考えこむのだった。

 トゥールジャンはパンデルームの館の円形の部屋にいた。エンベリオンの極彩色の光線が天窓を通して彼の肩にふりそそいでくる――サファイアの青、キンセンカの黄、鮮血の赤。家のなかには沈黙がみなぎっている。トゥールジャンは床の神秘文字模様から離れると、パンデルームが彼のいるのを知らずにはいってきはしまいかと恐れて不安げに扉を見やった。
「パンデルーム殿!」と呼ばわった。「もどってきました!」
 応答はなかった。深い静寂が館にたれこめている。トゥールジャンは、少しでも魔法のにおいが弱い外気のなかに自分がいたら、と思った。彼は二つの扉をながめた。一方は玄関広間に通じ、もう一方はどこに通じているかわからない。右手の扉は屋外に通じているに違いない。彼は掛け金に手をかけてはずそうとした。が、一瞬ためらった。もし彼がまちがっているとしたら、そして、もしバシデルームが姿を現わしたとしたら? ここで待つほうが賢明だろうか?
 解答が頭に浮かんだ。彼は扉に背を当てて、それをあけ放った。
「ハンデルーム殿!」と彼は呼んだ。
 柔らかいとぎれとぎれの音が背後から彼の耳に届いた。苦しそうな息づかいを耳にしたように思った。はっとしてトゥールジヤンは円形の部屋にもどり、扉をしめた。
 彼は忍耐に身をゆだね、床に坐りこんだ。
 あえぐような叫び声が隣室から聞こえてきた。トゥールジャンは勢いよく立ちあがっ

 (6)
た。
「トゥールジャンか? そこにいるのか?」
「そうです。護符を携えてもどってきました」
「すみやかに、こうするのだ」と息切れのする声が言った。「眼を守り、護符を首にかけてから部屋にはいれ」
 トゥールジャンはただならぬ語気に拍車をかけられ、眼をとじ護符を胸にかけた。手探りで扉まで進み、大きくあけ放った。
 張りつめた沈黙の一瞬が過ぎ、ぞっとする金切り声があがった。それはあまりにも荒々しく悪魔的であり、トゥールジャンの頭が悲鳴をあげたほどだった。力強い翼が空気をたたいた。しゅっという音がし、それから金属のこすれあう音。続いてこもった咆哮のただなかで、冷たい風がトゥールジャンの顔にあたった。もう一度しゅっという音――そして静まりかえった。
「感謝の念にたえん」とパンデルームの落ちついた声が言った。「あのような恐ろしい緊張を体験することはめったになかった。おまえの助けがなかったら、あの地獄の生き物を撃退することはおぼつかなかったかもしれん」
 手がトゥールジャンの首から護符を持ちあげた。わずかの沈黙ののちパンデルームの声がまた遠くから響いた。
「もう眼をあけてかまわん」
 トゥールジャンは眼をあけた。そこはパンデルームの仕事部屋だった。さまざまの他のものにまじって、彼のと同じような合成桶が見られた。
「礼は述べまい。しかし、それなりの均衡を保つために、奉仕の代償としての奉仕を遂行しよう。私は、おまえが合成桶のあいだで仕事をするのを手引きするだけでなく、ほかにも貴重なことをお教えしよう」
 このようにして、トゥールジャンはパンデルームの下で研究をすることとなった。日中はもちろん、エンベリオンの乳白色をした夜おそくまで、彼はパンデルームの見えさる指導のもとに研究を続けた。さまざまのことを学んだ――若返りの秘法、古代の数多くの呪文、そしてパンデルームが〈数学〉と呼んでいる摩詞不思議な抽象的学問。
 パンデルームが言った。「この学問のなかに全宇宙がある。それ自体は受動的であり、魔法が介しているわけでもないが、すべての問題を、存在のさまざまの様相を、時空のあらゆる秘密を明らかにしてくれる。おまえの呪文や神秘文字はこの力の上に成りたち、根底となる魔法の大モザイクに従って規則化されているのだ。われわれにこのモザイクの模様を推測オることはできない。われわれの知識が教訓的で経験的で独断的だからだ。ブァンダールはこの模様をかいま見て、現在彼の名が冠されている多くの呪文を公式化することができたのだ。私は長きにわたってその曇りガラスを打ち破ろうと苦心してきた。しかし、今までのところ研究は失敗に終わっている。このモザイク模様を発見した者はあらゆる魔法を知りつくし、想像を絶する力をもつ人間になるであろう」
 そこでトゥールジャンはその学問に専念して、より単純なきまり(・・・) をたくさん学んだ。
「このなかにはすばらしい美があります」と彼はパンデルームに話しかけた。「これは科学などではなく、芸術です。不協和音が協和音になるかのように、方程式は解けて構成要素に分かれます。つねに単純か複合の相称が支配的で、しかもそれはつねに水晶の透明さをもっています」
 これら他の分野の研究をする一方、トゥールジャンは生活時間のほとんどを合成桶とともに過ごし、パンデルームの指導のもとに、求めていた統御力を習得した。気晴らしに彼はエキゾティヅグな姿の女をつくり、フロリールと名づけた。祭りの夜、カンダイヴ侯にはべっていた少女の髪が彼の心に焼きついていたので、トゥールジャンは彼のつくった生き物に薄緑の髪を授けた。肌はクリーム色がかった日焼け色、大きな眼はエメラルド色だった。彼は合成桶から、水をしたたらせた完全な姿の彼女を取り出したとき、喜びに酔いしれた。彼女は物覚えがはやく、すぐにトゥールジャンと話をすしかた(・・・)を覚えた。彼女は夢見がちで、もの思いにふけりやすいたちの娘で、草原に咲いた花のあいだをぶらぶらしたり、川辺に黙って坐ったりしている以外に、これといって何もしたがらなかったが、それでも彼女は快い存在であり、優しげなしぐさがトゥールジャンを楽しませた。
 しかしある日、黒髪のツェイスが馬に乗って通りかかり、鋼のように冷たい眼を光らせ、剣で花々を切り散らした。無邪気なフロリールは何気なく近よっていった。と、ツェイスは大声で「聞きな、緑の眼の娘。あんたを見るとぞっとするよ。死ぬがいい!」と叫びぎまに、道ばたでつんだ花を手にしたフロリールを切り倒した。
 トゥールジャンはひずめの音を聞きつけ、仕事部屋から出てきて、剣が振りおろされるのを()のあたりにした。役は激怒で蒼白になり拷問の呪文が口をついて出かかった。そのときツェイスが彼を見てののしった。その青白い顔と暗い瞳のなかに彼が見たものは、彼女の悲惨な心境と、彼女をして自分の運命に逆らわせ生命に固執させる精神だった。さまざまの感情が彼のうちで葛藤したが、けっきょくツェイスを許し、去るにまかせたのだった。彼はフロリールを川岸に埋葬し研究に没頭することで彼女を忘れようと努めた。
 数日後、彼は仕事の手を休めて、ふと頭をあげた。
「パンデルーム殿! 近くにおられますか?」
「何がお望みだ、トゥールジャン?」
「あなたは、ツェイスをつくったとき、傷が頭をゆがめたとおっしゃいました。こんどは

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