(1)
<暮れゆく地球の物語> 第一話
 ミール城の魔法使
   TURJAN OF MIIR

ジャック・ヴァンス
さとう@Babelkund訳

 トゥールジャンは自分の仕事部屋で腰をおろしていた。脚はストゥールの上になげだされ、背と肘は長いすにもたせている。部屋のむこう側に檻が一つあり、トゥールジャンは憂い顔でこの中をみつめていた。檻の中の生き物は推しはかりがたい表情で見返してきた。
 それは哀れをさそう代物だった。小さくひょろ長い胴体の上にのっかった大きな頭。やに(・・)だらけの弱々しい眼。たるんだボタンのような鼻。口は濡れて締まりなくたれさがり、皮膚ピンク色で蝋のように光っていた。明らかに出来そこないではあるが、これでも現在までのところ、トゥールジャンの合成桶の成果のうちで最もうまくいった例だった。
 トゥールジャンは立ちあがると、かゆ(・・)の椀を手にした。長柄のさじで食物を生き物の口にもってゆく。しかし口はさじを受けつけず、かゆ(・・)はつやのある皮膚をつたって虚弱なからだの上にこぼれた。
 トゥールジャンは椀をおくと、数歩しりぞき、それからゆっくりストゥールのところへもどった。これで一週間というもの、何も食べようとしないのだ。この白痴のような顔つきは知力を――消滅への意志をかくしているのだろうか。トゥールジャンが見守るうちに、青白色の限はとじ、大きな頭はがくっと前に傾いて檻の床にぶつかった。四肢の力が抜け、生き物は息絶えた。
 トゥールジャンはため息をつくと部屋を出た。らせん状の石段を登りつめると、ミール城の屋上に出た。遙か下方をデルナ河が流れている。
 西の彼方には、年老いた大地の下にまさに沈まんとする太陽があった。紅玉(ルビー)色の光条はワインのように淀み、古い森林のふしくれだった樹幹の間を斜めに抜けて、芝地にさしこんでいた。いにしえのしきたりに従って太陽が沈み、この世界の夜が森を渡って訪れ、柔らかな暖かい闇が足早にやってくる。トゥールジャンは最前の生き物の死について考えながらたたずんでいた。
 彼はそれまでに作られたたくさんのものについて思いをめぐらした。からだ中に眼があるもの。むきだしになった脳の表面が脈動する、骨なしの生き物。腸がとびだして、養分をさがす根さながらに栄養液のなかに這いこむという美しい女。内と外が反転した生き物、等々。彼は絶望的なため息をついた。方法がまちがっているのだ。彼の合成法には根本的な要素が欠けており、パターンの構成要素を配列した基質は不完全なのだ。
 タ闇がおしよせる土地をみつめながら坐っていると、数年前の夜の記憶がよみがえってきた。〈賢人(セイジ)〉が彼のかたわらに立っていた。
「その昔」と賢人は言った。彼の眼は高度の低い星の一つを見すえていた。「千もの呪文が魔法界で知られており、魔法使いは自らの意志を体現しておった。地球が死に瀕している今日、百の呪文しか人間の知識には残っておらず、それらは古代の書物を通してわれわれにもたらされている……。だがここに、パンデルームと呼ばれる者がおる。その者はすべての呪文を――かつて宇宙をひねり、こねまわした、ありとあらゆるまじない・秘術・神秘文字のたぐいを知っている」彼は黙りこみ、もの思いに沈んだ。
「そのパンデルームはどこにいるのですか」やがて、そうトゥールジャンがたずねた。
「彼はエンベリオンの地に住んでおる」と賢人は答えて言った。
「だが、その地がどこにあるのかは、誰も知らない」
「では、どのようにしてパンデルームに会うのです?」
 賢人は力なく笑った。「必要とあらば、人をその地へ運ぶ呪文があるのだ」
 二人は少しの間、おし黙った。賢人が口をひらいた。眼は森の彼方を見すえている。
「何をたずねても、パンデルームは答えてくれるだろう。ただし、答えを求めるものがパンデルームの要求する仕事をなしとげるという条件つきでだが。しかもパンデルームは無理難題をおしつけるという」
 それから賢人は問題の況文をトゥールジャンに教えた。彼はその呪文を古代の紙ばさみのなかからみつけ、世間にはいっさい知らせずにおいたのだった。
 この対話を思い出し、トゥールジャンは書斎へとおりていった。そこは石の壁と石の床にかこまれた天井の低い、細長い広間で、あずき色のぶ厚い敷物が石の冷ややかさをいくぶん和らげていた。トゥールジャンの魔法がおさめられている何冊もの大きな本が、黒スキール製の細長い机の上におかれたり、あちこちの棚に雑然とつっこまれたりしであった。それらは、過去のおおぜいの魔法使いによって編纂された書物や、〈賢人〉によって収集された粗雑な大型本や、百の強力な呪文の音節を記してある皮張りの書籍などであった。記されている呪文はひじように力強く、トゥールジャンの頭は、一時に四つしか記憶することができなかった。
 トゥールジャンはかび臭い紙ばさみをとりあげ、重いベージを繰って賢人が教えてくれた呪文――〈荒雲(あらくも)召喚の呪文〉の記してある箇所をひらいた。彼がその文字をみつめると、文字は急激な力で燃え輝き、本自体を暗くとりのこして、狂乱しているかのように紙面を圧した。

 (2)
 トゥールジャンは本をとじ、その呪文を忘却のなかへ押しやった。短い青のケープをはおると、刀をベルトにさし、〈ラッコーデルの神秘文字〉が彫られている護符を手首につけた。それから腰をおろし、日誌から身につけてゆく呪文を選んだ。どのような危険が待ちうけているか見当がつかなかったので、彼は一般に適用される呪文を三つ選び出した。〈変幻虻しぶき〉、〈ファンダールの隠れ(みの)〉、〈時間緩行の呪文〉。
 彼は城の胸壁の階段を登り、星の下に立って、年老いた地球の空気を吸いこんだ。……この空気は彼以前に幾億回、呼吸されたことだろう。どんな苦痛の叫びを、この空気ば経験していることだろう。そして、どんなため息を、笑い声を、(とき)の声を、歓喜の叫びを、あえぎを……。
 夜はしだいにふけてゆく。青い光が一つ、森の中でゆらめいている。トゥールジャンは少しの間それをみつめ、それからついに直立不動の姿勢をとって〈荒雲召喚の呪文〉を唱えた。
 あたりが静まった。と、かすかなざわめきが起こり、それがしだいに音を増し、大風のうなりとなった。一筋の細い白煙がたちのぼったかと思うと、またたく間にそれがふくれあがって沸きたつ黒煙の柱となった。その混乱のなかから、低く荒々しい声が起こった。
「なんじの騒がしき術法にこたえ、参上した。どこへ行くことがお望みだ?」
「四方に。それから一方に」と、トゥールジャンは言った。「五体満足でエンベリオンに着かなくてはならない」
 雲は渦まいておりてき、彼をひっつかむとまきあがり運び去り、まっさかさまにどちらともわからぬ方角へ投げこんだ。四方に突進し、それから一方に向かった。そしてついに一陣の疾風が彼を雲からはじき出し、エンベリオンの地にほうり出した。
 トゥールジャンは立らあがると、二、三歩よろめいた。頭はなかば朦朧としている。五感が正常にもとると、あたりを見まわした。
 彼は水の澄んだ池のはたに立っていた。青い花々が膝のまわりに咲き乱れ、背後には青緑色の木立がひかえていた。樹々の葉は霧のなかにとけこんでしみ(・・)のように見えた。エンベリオンというのは地球上にあるのだろうか? 樹々は地球のものに似ている。花々はありふれた形をしている。空気も同じ肌ざわりをしている……。しかし、この地は奇妙に何かが欠けていた。それが何であるか言いきるのはむずかしい。たぶんそれは、水のように透明でしかも不確かな、ぼんやりした空気の性質のため、地平線が妙に綬味としていることに由来するのだろう。しかしながら、それにもまして不思議なのは空だった。波紋が果てしなく綾なし、網のようになっているのだ。しかも、波紋は有色光の幾千もの光条を屈折させ、その光線は宙空で不思議な光のレースを織りなし、虹の網となり、全体として宝石の色合いを見せている。そんなふうに目をこらしていると、あたりを赤ワイン色や黄玉(トパーズ)色や濃いスミレ色や目もあやな緑色の光束が走った。そして彼は花や樹の色が移り変わる空の働きにすぎないと知った。なぜなら、今、花々は鮭肉色在しており、樹々は夢見るような紫だった。花の色は深みをまして銅色となり、それからみなぎるばかりの真紅に変わり、やがて栗色を経て緋色へと移っていった。いっぽう、樹々は海青色になっていた。
「〈位置不明の土地〉だ」とトゥールジャンは心に思った。「上昇したり下降したりして、前世か後世に連れてこられたのだろうか」地平線を見やり、黒い壁が上方の暗黒のなかまで続いているのを見ようとした。ぞの壁は八方でこの土地を取り囲んでいた。
 疾駆するひずめの音が近づいてくる。ふりむくと黒馬が池のふちに沿って駆けてくるのが目にはいった。乗り手は若い女だ。その黒い髪は風にもつれ、なびいている。女はゆったりした白い半ズボンをはき、黄色いケープを風にはためかせていた。片手で手綱をつかみ、もう一方の手で剣を振りまわしている。
 トゥールジャンは用心してわきへよけた。女の口もとが怒っているかのようにキッと結ばれ、限が奇妙な狂気を秘めて燃え輝いていたのだ。女は手綱を引きしぼり、馬を竿立ちにして向きを変えると、トゥールジャンに襲いかかり、手にした剣を彼めがけて突き出した。
 トゥールジャンはとびずさると、腰の刀を抜き放った。女が再び攻撃をしかけてきたとき、彼はその一撃を受け流すと、身をのり出して切っ先を彼女の腕に見舞った。血のしずくが流れ出た。女は驚いて退くと、鞍から弓をつかみあげ、矢をつがえた。トゥールジャンははじかれたようにとび出し、乱暴になぎ払われた剣をかわすと、女の腰に腕をまわし、地面に引きずりおろした。
 女は気が狂ったようにあばれた。女を殺したくなかったので、彼はそれほどもったいをつけずにとっくみあった。やっとのことで、女の両腕を背に押しつけて、あらがえないように取りおさえた。
「静かにするんだ、おてんばギツネめ!」とトゥールジャンは言った。「堪忍袋の緒が切れて、おまえをのしてしまわないうちにな!」
「好きなようにするがいいわ」と女はあえぎながら言った。「生と死は兄弟だもの」
「なぜ私に(やいば)を向けようとするのだ? おまえに無礼なことをした覚えなどないが」
「あんたは邪悪なのさ。この世に存在するあらゆるものと同じにね」きめの細かい喉もとが激情でひきつった。「もしあたしに力があったら、この宇宙全体を血まみれになるまで打ち砕いて、徹底的に踏みにじってやるわ」

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