(7)
「あなたに対しては、名無しでいたほうがいいのよ。わたしを呪ったりしないようにね。さあ、わたしはあなたのついて来られないところへ行くわよ」そう言うと川岸を駆けおり、ゆっくり水のなかに入っていった。腰まで水につかったかと思うとスッと沈んで見えなくなった。女は行ってしまったのだ。
 メージリアンは心を決めかねて逡巡した。あまりたくさんの呪文を使って力を失うのは好ましいことではない。湖面の下には何が存在しているのだろう。隠微な魔法の気配がある。彼は〈湖の主〉と仲がわるいわけではないが、ほかの生き物が侵入を不快に思わないとも限らない。しかしながら、娘の姿が水面に現われないと知ると、彼は〈不断滋養の秘術〉の呪文を唱えて冷たい水のなかに入っていった。
 彼は〈夢の海〉を下へ下へと漂いおりて、湖底に到達した。肺は秘術のおかげでふつうに働いている。そこで()のあたりにした異常な光景は驚嘆に値した。暗闇のかわりに緑の光があたり一面を照らし出しており、水は空気よりもわずかに濁っているにすぎなかった。植物が水流に身をゆだねてうねり、それに合わせて赤・青・黄のなよやかな湖の花がゆらめく。さまぎまの形をした大目玉の魚が見え隠れして泳いでいる。
 湖底は階段状の岩地を下ると広い平原になっており、ほっそりした茎の上に奇妙な葉と紫の水中果実をつけた湖中の木々がゆらぎ、ぼんやりかすむ遥か彼方までおおいつくしている。彼は女を見つけた。髪が黒いもやのようになびき、さながら白い水の精のようだ。彼女はなかば泳ぎなかば走って水の世界の砂地をつき進み、ときおり肩ごしに背後を見やる。メージリアンが外套をなびかせてそのあとを追う。
 彼は勝利に心をときめかせながら女に迫った。こんなに遠くまで自分を連れてきたのだからお仕置きをしなくては……。彼の仕事部屋の床下にある古代の石段は地下深くまで続いており、下ってゆくと地下室に出るが、その下には次々と広さを増す部屋部屋がひかえている。メージリアンはそれらの部屋の一つで、錆のふいた檻を見つけていた。一、二週間、真黒な檻のなかにとじこめておけば彼女のわがままもなおることだろう。むかし一人の女を親指ほどに縮めて、うるさい蝿二ひきといっしょに小さなガラス瓶のなかに入れておいたときなどは……。
 白い寺院の廃墟が緑の光のなかに見えてきた。幾本もの円柱があり、そのあるものは倒れあるものはいまだ破風をささえている。女長押(なげし)が影をおとしている柱廊玄関に入った。おそらく彼をまこうとしているのだろう。ぴったりついて追わなくては。白い肢体が本堂の向こうのすみにちらりと見えた。演壇の上を泳いで越えるとその背後にある半円形の入り込み(アルコーヴ)に消えた。
 メージリアンは荘厳な薄暗がりのなかを、なかば泳ぎなかば歩いて、できるかぎりの速さであとを追った。暗闇をすかし見た。外側のよりも小さな円柱が、かなめ石のおちた丸天井をあぶなっかしく支えている。突然の恐怖が彼を襲い、頭の上の動きを目にするや、それが現実化した。八方から柱が内側にむかって倒れ、大理石塊のなだれが降りそそいだ。彼は狂ったように跳びすさった。
 混乱がやみ、年を経たしっくい(・・・・)の白塵が静まった。本堂の長押(なげし)上で例の女がほっそりした膝をついて、首尾よくメージリアンを殺せたか確かめようと見おろしていた。
 彼女のもくろみは失敗だった。二本の柱が、千載一遇の幸運で彼の両側に倒れ、石板が大理石塊から彼の身を守ったのだ。彼は痛痛しげに頭を動かした。くずれおちた大理石のすきまから、身をのり出して彼のからだをみつけようとしている女を見ることができた。それではあの女はわしを殺そうとしたのか。自分で数えるのもおっくうになるほど(よわい)を重ねたこのメージリアンを? それならばあとでその数層倍もわしを憎み恐れるようになることだろう。彼は呪文を口走った――〈全能守護球の呪支〉。力場の膜が彼の周囲に生じ、ふくらみながら障害物をすべて押しやった。大理石の残骸が除かれると彼は〈守護球〉を消して立ち上がり、目を凝らして女をさがした。彼女は視界から去る寸前だった。紫色の長い海草の茂みの背後にある斜面を岸に向かって登っているところだ。彼は全力を出して追跡を再開した。

 ツェインはからだをひきずるようにして波打ち際にあがった。まだ背後から魔法使いメージリアンが追ってくる。彼の力は彼女の計画をことごとく打ち破ってしまった。彼の顔が脳裏をよぎり、彼女はぶるっと身震いした。今、彼につかまってはならない。
 疲労と絶望が足の動きを鈍らせた。彼女はたった二つの呪文を身につけただけでこの企てを実行に移したのだ――〈不断滋養の秘術〉と腕に力を与える呪文。後者はスラングを遠ぎけるのとメージリアンの上に寺院を崩すのに役立った。この二つは使い果たしてしまった。身を守るものは何もないのだ。しかし他方では、メージリアンの手の内もからになっているのだ。おそらく彼は吸血草のことを知らないだろう。彼女は斜面を駆けあがって、風に打たれた青白い雑草の背後に立った。すぐにメージリアンが湖から上がってきた。痩せた影が淡く光る湖面を背に浮きあがって見える。
 彼女はしりぞいた。両者のあいだに罪もない雑草の茂みがくるようにしている。もし雑草が取り逃がしたら――自分がしなければならないことを思うと心がくじけそうになった。
 メージリアンは草のなかに踏みこんだ。

 (8)
弱々しい草の葉が力強い指となった。くるぶしにからまりつき、非情な握力で彼をおさえ、別の葉が彼の皮膚をまさぐる。
 そこでメージリアンは最後の呪文を唱えた――金縛りの呪文だ。吸血草はぐったりと地面にくずおれた。ツェインは絶望惑にうちひしがれてこれを見守った。彼は外套をはためかせてにじり寄ってくる。彼には弱点はないのだろうか。筋肉は痛まないのか。息が切れることはないのか。彼女はよろけながら草地を走った。黒い木々のはえている林に向かって。その奥深い影と陰気な樹幹に肌が泡立つのを惑じた。しかしメージリアンの足音はまぢかに迫っている。彼女は恐ろしげな薄暗がりに飛びこんだ。林中の生き物が目を覚ますよりまえに、できるだけ遠くまで行っていなければならないのだ。
 パシッ! 皮ひもが彼女を打った。ツェインは走り続ける。さらに一撃、もう一撃――彼女は倒れた。次々と激しい鞭の雨が彼女を打ちすえる。よろめきながら立ち上がると、顔を両腕でおおいながら走り続けた。パシッ! からざおが次から次へと空を切った。最後の一発が襲ってきたときからだをよじった。そしてメージリアンの姿を目にした。彼は戦っていた。雨霰のごとく加えられる攻撃のただなかで、彼は鞭をつかんで引きちぎろうとしていた。しかし彼の力のおよばないほどしなやかで弾力的だ。ぐいとうしろに引かれたかと思うと、ふたたび彼を打ちのめす。彼の抵抗にいきりたって、無数の鞭が不運な魔法使いのうえに集中した。彼は口から泡をとばしてがむしゃらに戦った。ツェインはといえば、弱まった攻撃の網目を縫ってぶじ林のはずれまで這い出していた。
 彼女は振りかえって、生に執着するメージリアンのあがきに畏怖の念を感じた。彼は鞭の雲のなかでよろめいていた。たけり狂ったその頑強な姿がぼんやりと輪郭を見せている。力尽き、逃げようともがき、転倒した。鞭の雨が降りそそいだ――頭に、肩に、長い脚に。起きあがろうともがいたが、また倒れこんでしまった。
 ツェインはぐったりと目を閉じた。血が傷口からにじみ出しているのを感じる。しかしいちばん大切な使命がまだ残っているのだ。彼女は脚を伸ばすとふらふら歩きはじめた。かなりのあいだ雷鳴のような鞭の音が彼女の耳に届いた。
 メージリアンの庭園は夜になるとことのほか美しかった。星形の花々が大きく開くさまはまさに魔法のような完璧さだ。その餌食になる半植物の蛾があたりをひらひら舞っている。燐光を放つスイレンの花が蠱惑の(かんばせ)のように池に浮かび、メージリアンが遥か南方のアルメリーからもってきた灌木が、果物のような甘いかおりをただよわせている。ツェインはよろめきあえぎながら、やっとの思いで庭園を歩いていた。目を覚ました花が彼女をじろじろ見た。半動物の交配種は、メージリアンの足音がひびいたのだと思って眠そうに彼女につぶやきかけた。かすかに聞こえてくるのは青い花々のかなでるもの悲しげな音楽だ。白い月が空をめぐり、大嵐や雲や雷が四季を()べおさめた古代の夜を歌っている。
 ツェインは無関心にその場を通りすぎた。メージリアンの館に入ると黄色い永久灯に照らされた仕事部屋をさがしあてた。メージリアンがつくった金髪の合成生物がすくっとからだを起こして、美しくうつろな目で彼女を見つめた。
 彼女はメージリアンの鍵束を戸棚のなかでみつけると、階段に通じる扉をやっとのことで引きあけた。そこにすわりこんでからだを休めると、ピンク色のもやが眼前をよぎった。きまぎまな光景が現われては消えた――長身で傲慢なメージリアンがスラングを殺そうと前に踏み出す。湖底に咲く奇妙な色彩の花々。魔法を使い果たしたメージリアンが鞭と戦う……。彼女の髪をおずおずともてあそぶ合成生物のおかげで彼女は夢幻の境から引きもどされた。
 頭を振って意識をはっきりさせると、なかばころがるようにして階段をおりていった。扉の三重錠をはずすと、最後の力をふりしぼって扉を押しあける。ふらふらっと中に入るとガラス蓋つきの箱をのせた台座にすがりついた。そのなかではトゥールジャンと竜が死にもの狂いの競技を行っている。彼女はガラス蓋を床に投げつけてこなごなに砕いてしまうと、トゥールジャンをそっともちあげ、下におろした。
 呪文は彼女の腕につけた神秘文字の護符にふれると破れ、トゥールジャンはもとのからだになった。彼は唖然として、意識を失いかけたツェインを見つめた。彼女はほほえみかけようとした。
「トゥールジャン――あなたは自由よ――」
「それでメージリアンは?」
「死んだわ」彼女は疲れきって石の床に倒れこみ、力なく横たわった。トゥールジャンは瞳に奇妙な感慨を浮かべて彼女を見おろした。
「ツェイン。いとしきわが心の糧よ」とつぶやいた。「おまえは私などおよびもつかないほど気高い。私を自由にするために、おまえのもつたった一つの生命(いのち)を使ってしまったのだから」
 彼は両腕でツェインのからだをかかえあげた。
「しかし合成桶におまえをもどしてやろう。おまえの脳を使って私は別のツェインをつくりあげるのだ。おまえと同じように美しいからだを……。さあ行こう」
 トゥールジャンは彼女をかかえて階段を上がっていった。
            ―第二話 完―

【初出】SFマガジン(1971/10)

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