(3)
 メージリアンは三つの錠をはずし、扉を大きくあけ放った。室内にはガラス蓋つきの箱をのせた石の台をのぞいて何もなかった。箱の大きさは縦横一ヤード、高さ四、五インチほど。箱は実際には方形の通路、つまり四ヵ所で直角に曲がった細長い通り道であり、そのなかで二匹の生き物が動いていた――一方が追い、他方が逃げている。追撃者は狂暴な赤い目と牙のはえた獰猛な(あぎと)をもった小さな竜だった。ぶざまに開いた六本足でよたよた歩き、それに合わせて尾をぴくぴく動かしている。もう一方は竜の半分ほどの背丈しかない強壮な容貌の男で、何もまとっておらず、長い黒髪が銅のバンドでたばねられている。彼は追跡者よりわずかに速く動き、竜のほうは仮借ない追尾を続け、たまに奸計を(ろう)して速度をはやめたり折り返したり、男がうっかりまわってこないかと角で待ち伏せたりする。男はつねに神経をはりつめて警戒し、牙の届く範囲から遠ざかっていられた。その男がトゥールジャンだった。メージリアンは彼を数週間まえにペテンにかけてつかまえ、縮小してこのように監禁したのだ。
 その爬虫動物がわずかのまの息抜きをしている男にとびかかり、男が間一髪で難をのがれるさまを、メージリアンは楽しげに見守った。そろそろ両者に休息と食物を与える時間だな、と思った。彼は仕切り板を二枚、通路にさしこんで半分に分け、男を獣から隔離した。それから両者に肉と小盃に入れた水を与えた。
 トゥールジャンは通路にしゃがみこんだ。
「どうだね」とメージリアン。「疲れただろう。休息がほしくないか?」
 トゥールジャンは沈黙を保ち、目を閉じている。時間と世界は彼にどって意味を失っていた。灰色の通路と果てしない逃走だけが現実なのだ。未知の間隔を置いて食物と一、二時間の休息がやってくる。
「青空のことを考えてみたまえ」とメージリアンが言った。「青白い星々や、デルナ河のほとりのおまえの域〈ミール城〉のことを。それに、のびのびと草原を歩きまわることを考えるんだ」
 トゥールジャンの口もとの筋肉がぴくっと動いた。
「よく考えてみろ。かかとでそのちっぽけな竜を踏みつぶすこともできるんだぞ」
 トゥールジャンは顔をあげた。「私はむしろおまえの首ねっこを踏みつぶしてやりたいね、メージリアン」
 メージリアンはその言葉に動じなかった。「どうやって合成桶のなかの動物に知能を授けたか、わしに教えてくれないか。話せば自由にしてやる」
 トゥールジャンは笑った。その笑い声には狂気の響きがあった。
「おまえに教えるだと? それから? おまえはすぐさま煮えたぎった油で私を殺してしまうだろう」
 メージリアンの薄い唇が不機嫌そうにたるんだ。
「あわれな奴だ。どうすれば口をわるか、わしにはわかっておる。おまえの口にぼろぎれを詰めこみロウを塗り、封印を押せばしゃべるんだろう! あすは腕の神経をむきだしにして粗布をこすりつけてやるとするか」
 縮小されたトゥールジャンはあぐらをかいて通路に坐りこんでおり、水を飲むとじっとおし黙った。
「今夜は――」意識的に害心をにおわせてメージリアンが言った。「曲り角を一つふやしておまえの道を五角形に変えてみよう」
 トゥールジャンはしばしためらい、ガラス蓋ごしに敵を見あげた。それからゆっくり水をすすった。五角形に変われば角から見ることのできる通路が短縮されるから、怪物の攻撃をのがれるための時間はへることになる。
「あしたになれば」とメージリアン。「あらんかぎりの機敏性を出さなければならなくなるだろう」ふと、別の事柄が頭に浮かんだ。思うところありげにトゥールジャンを見つめる。「だが、もし別の問題でわしを助けてくれるというなら、こんなことは中止しないでもないが」
「どんなことでお困りなのかな、熱に浮かされた魔法使い殿?」
「ある女の姿がわしの頭にとりついておるのだ。どうしてもその女をとらえたい」メージリアンの目が回想でどんよりとなった。「夕暮れ近くにその女は大きな黒馬に乗って、わしの庭園のはずれまでやって来る――おまえはその女を知らんか、トゥールジャン?」
「いいや知らないな、メージリアン」トゥールジャンは水をすすった。
 メージリアンは続けた。「その女は〈フェロージャンの第二催眠呪文〉を防ぐほどの魔法を身につけておる。さもなくば護身神秘文字のたぐいを持っているのかもしれん。わしが近づくと女は森に逃げこんでしまうのだ」
「それで?」とトゥールジャンはたずね、メージリアンが置いた肉をかじった。
「この女は誰だろうな」メージリアンは軽蔑のまなざしを小さな捕虜にむけながら言った。
「どうして私が知ってるんだ?」
「なんとしてもあの女を捕えなくては」メージリアジはうわのそらで口を動かした。「どんな呪文で、どんな呪文で?」
 トゥールジャンは見あげた。しかしガラス蓋ごしにぼんやりとしか魔法使いの姿を見ることはできないのだ。
「私を出してくれ、メージリアン。そうすればマーラム・オル寺院の選良高僧としての私の言葉にかけて、その女を連れてこよう」
「どんな方法を使うのだ?」と疑い深い魔法使いは尋ねた。
「私のもっている最高の〈生ける長靴〉と山ほどの呪文を使って、森のなかまでその女を追ってゆくのだ」

 (4)
「わしと大差あるようには思えんな」と魔法使いは言いかえした。女はわしが自分で追う」
 トゥールジャンは魔法使いに目の色を読みとられないように頭を低く垂れた。
「それで私は?」少し間をおいて彼は尋ねた。
「おまえのことは帰ってきてからどうにかしよう」
「それで、おまえが帰ってこなかったら?」
 メージリアンは顎をさすり、整った白い歯を見せて徴笑した。「そのときは竜がご馳走にありつくことになるな。いまいましい秘法をしゃべってしまえば別だが」
 魔法使いは石段をのぼった。深夜、彼は書斎で皮装の大型本や粗雑な紙ばさみをひっかきまわしていた……。一時期は、千以上もの神秘文字・呪文・まじない・呪詛・魔術が知られていた。大モソラム帝国の版図――アスコレース、コーチック沿海地、南端のアルメリー、東端の〈崩れゆく壁〉の地――にあらゆる種類の魔術師がひしめきあっていたが、そのなかで(おさ)といわれるのが〈大妖術師ファンダール〉だった。百もの呪文をファンダールは自らの手で公式化したが風説では彼が魔法を使うと悪魔たちが彼の耳にささやいたということになっている。大モソラム帝国の当時の支配者、敬神王ポンテシラはファンダールを拷問にかけ、恐るべき一夜が明けるとファンダールを殺し、全土に魔法禁止の布令を出した。大モソラム帝国の魔法使いたちは強光の下の甲虫のように逃げまどった。かくて知識は散逸し忘れ去られた。今日(こんにち)、太陽がくすみ荒地がアスコレースをおおい、白い都ケーインがなかば廃墟となった薄暮の時代にあってわずか二、三百の呪文が人間の知識に残っているにすぎない。このうちメージリアンが近づきえたのは七十三個で、残りも策略と取引によって徐々に手に入りつつあった。
 メージリアンは蔵書のなかから五つの呪文を選び出すと、ひじょうな努力のすえにそれらを頭のなかに押しこんだ――〈ファンダールの旋風〉、〈フェロージャンの第二催眠呪文〉、〈変幻虹しぶき〉、〈不断滋養の秘術〉、〈全能守護球の呪文〉。これがすむとメージリアンはワインを飲んで床についた。
 翌日、陽が傾いたころになるとメージリアンは庭園を散歩してまわった。待つほどのこともなかった。彼がムーン・ゼラニウムの根のまわりの土をやわらかくしていると、近づいてくるかすかな物音が彼の望んでいるものの出現を告げた。
 彼女は鞍にまっすぐ坐っていた。優美な外貌の乙女だ。メージリアンは女を驚かせないようにゆっくり身をかがめると、〈生ける長靴〉に足をつっこみ、膝の上でしっかり留めた。
 彼はからだを起こした。「やあ、お嬢さん」と大声で言った。「また来られたんですな。なぜ夕暮れになるとここにいらっしゃるのですか? バラの花がお好きで? この紅色は生き生きとしておる。それも道理で、花びらには真赤な生き血が流れておるのです。もし今日あなたが逃げてゆかれなければ、一輪さしあげてもかまいませんが」
 メージリアンは細かく震えているその濯木からバラの花を一輪つむと、〈生ける長靴〉の波打つ力と戦いながら女にむかつて歩を進めた。あと四歩というところまで来たとき、女は両膝で馬の脇腹をたたいて樹々のなかに飛びこんだ。
 メージリアンは長靴の全活力を解放した。靴は大きくはね、跳躍につぐ跳躍。かくて彼は全速力の追跡を始めた。
 メージリアンは伝説の森に入った。どちらを向いてもコケむした樹幹がラセン状によじれて頭上一面をおおう高い葉の屋根のなかへと続いていた。ところどころで葉もれ陽の光条が芝土の上に洋紅色のしみをつくっている。木陰では茎のひょろ長い花や弱々しいキノコが腐植土から伸びている。この地球の衰亡期にあっては自然は柔和でおおらかだった。
 〈生ける長靴〉をはいたメージリアンはひじょうな速さで跳躍をつづけ森のなかを突き進んだが、前をゆく黒馬のほうは苦もなく駆けて、それでも易々と間隔を保っていた。
 数リーグというもの女は馬を走らぜ続け、その髪を燕尾旗のように背後になびかせた。
 女がうしろを振りかえり、夢見るような顔を肩ごしに覗かせた。それからからだを前に倒した。金色の目をした馬は雷鳴のようにひずめをとどろかせ、またたくまに視界から消え去った。メージリアンは芝土の上の足跡をたどって追尾を続けた。
 〈生ける長靴〉の跳躍力と推進力が減衰しはじめた。全速力でもうかなり遠くまでやってきたのだ。驚異的な跳躍はしだいに短く重々しいものとなったが、足跡にみられる馬の歩幅のほうも最前にくらべ短くのろかった。ほどなくメージリアンは草原にとびだし、乗り手のない馬が草を()んでいるのを目にした。彼はしばしたたずんだ。前方にはやわらかい青草の果てしない広がりがあった。その空地に至るひずめの跡は鮮明だったが、そこから去った足跡はまったく見当たらない。とすると女はどこか途中で馬をおりたことになる――はたしてどこでなのか、彼には知るすべがなかった。馬のほうに歩いてゆくと、驚いてとびのき樹々の間に駆けこんでしまった。メージリアジは跡を追おうとして、〈長靴〉が弛緩しぐったり垂れさがっているのに気づいた――死んでしまったのだ。
 彼は自分の運の悪きをのろうと、靴をけりすてた。マントを肩のうしろにはらうと悪意のこもった興奮で顔を輝かせて足跡を逆にたどりはじめた。

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