(5)
 森のこのあたりでは黒色と緑色の岩――玄武岩と蛇紋岩――の露出がしばしば見られ、デルナ河の両岸にそびえる切りたった崖の近いことを物語っている。そういった岩石の一つに、小きな人間に似た生き物がトンボにまたがってとまっているのをメージリアンは目にした。緑がかった肌をしており、紗のような衣服をまとい、身長の二倍もある槍を携えていた。
 メージリアンは立ちどまった。トウク人が岩の上からぼんやり見おろした。
「わしの種族の女が通るのを見かけなかったかな、トウク人よ」
「確か、見かけましたよ」トウク人はちょっと考えてからそう答えた。
「どちらに行っただろうか」
「それを教えたら何をもらえますか?」
「塩を――おまえが持ち運べるだけやろう」
 トウク人は槍を振りまわした。「塩? だめだ。〈流れ者ライアン〉が部族のもの全員に塩をふるまってくれたんだ」
 メージリアンはその無頼吟遊詩人が塩と交換に得た利益のほどを容易に推測することができた。トンボにうちまたがって敏速に飛びまわるトウク人たちは森のなかで起こることならすべて見知っているのだ。
「わしの庭のテランクシスの花からとれる油をガラス瓶に一杯では?」
「いいでしょう」とトウク入。「その瓶を見せて下さい」
 メージリアンはそれを見せた。
「その女はすぐ先に倒れているあの雷にやられた樫の木のそばの踏みわけ道を去ってゆきましたよ。湖への近道になる渓谷にむかつてまっすぐにね」
 メージリアンはガラス瓶をトンボのかたわらに置くとその樫の木のほうに去っていった。トウク人は彼が去るのを見とどけると、昆虫からおりて瓶をその下腹にくくりつけた。その隣りにさがっている上等な柄に巻きとった糸の束は、メージリアンにそういうふうに道を教えるという約束で例の女にもらったものだった。
 魔法使いは樫の木のところで曲がるとすぐに枯れ葉のうえの足跡を見つけた。細長い空地が眼前に開けており、ゆるやかな勾配で川のほうに続いていた。樹々が両側にそそり立ち、日差の長い陽光がその片側を血の色に染め、反対側を奥深い暗闇のなかにとり残していた。暗がりの奥深さはメージリアンの視界を限り、一本の倒れた木に腰をおろしている生き物も目に入らなかった。それが背後から飛びかかろうと身構えたとき始めて、存在を感じとった。
 メージリアンはすばやく身を翻してその生き物と向かいあった。相手は再び腰をおとして坐りこんだ。それはディオダンドだった。からだつきや顔立ちは均整のとれた人間そのままで筋肉も隆々としているが、肌は真黒で艶がなく、両眼は異常に切れ長だ。
「おや、メージリアンさん。あんたはずいぶん遠くまで森のなかをさまよってきたもんだ」黒い生物の柔らかい声が空地に響いた。
 そのディオダンドが肉に飢えて彼のからだをねらっているのは目に見えている。あの娘はどうやってのがれたのだろうか。足跡はまっすぐ先へ続いている。
「ディオダンドよ、わしは人を捜しているのだ。質問に答えてくれ。さすれば山ほど肉を食わせてやると約束しよう」
 ディオダンドの目が輝き、メージリアンのからだをちらつと見やった。「とにかく言ってみるんですな、メージリアンさん。今日は強力な呪文をお持ちで?」
「もちろん。さあ教えてくれ。娘はどのくらいまえにここを通った? 走っていたのか、それとも歩いていたのか? ひとりか、それとも連れがいたか? 答えるんだ。そうすればおまえが望むときに肉を進ぜよう」
 ディオダンドの唇があざけるようにゆがんだ。「めくらの魔法使いさんよ! その女は空地を通りはしなかったのさ」彼は指さした。メージリアンは真黒な腕の差し示す方に目を向けた。が、すばやく飛びすさってディオダンドの攻撃をかわした。彼の口から〈ファンダールの旋風呪文〉の音節がほとばしり出た。ディオダンドは足をすくわれて空中高く投げあげられ、旋回しながら木々の梢と大地のあいだを、あるいは速くあるいはゆっくり、上がり下がりした。メージリアンはなかばほほえみを浮かべてこれを見守った。わずかののちディオダンドを下方にひきおろすと、回転をおそくした。
「瞬時に死ぬのとじわじわ死ぬのの、どちらがお望みだ」とメージリアンは尋ねた。「わしを助けてくれればすぐさま殺してやる。さもないとペルグレーンが飛んでいるような高さまで上がらにゃならなくなるぞ」
 憤激と恐怖でディオダンドは息をつまらせた。
「暗黒のサイアル神がきさまの目玉を串刺にしちまえばいい! クラーン神がおまえの脳みそを生きたまま酸にぶっこんじまえばいい!」そのあと、メージリアンが報復の呪詛を口走りたくなるような非難の言葉をつけ加えた。
「それでは上がるがいい」業を煮やしたメージリアンはそう言いざまに手を振った。手足を広げた黒いからだは木々の梢よりも高く飛び上がり夕日の放つ真紅の陽光をあびてゆっくり旋回した。ほどなく鉤鼻をもつ、コウモリに似たまだらの生き物がすうっと飛んできて、ディオダンドが悲鳴をあげて蹴り払うよりまえにくちばしで黒い脚をついばんだ。次から次へと翳が太陽をよぎる。
「おろしてくれ、メージリアン!」というかすかな声がきこえた。「知ってることは話すから」
 メージリアンは彼を地面近くまでひきおろした。

 (6)
「女はあんたが来るまえに、ひとりで通りかかった。襲おうとしたんだがサイルの粉を一握りぶっかけられたんで逃がしちまった。女は空地のはずれまで行くと川に通じる道をたどっていった。この道はスラングの巣のわきも通ってる。それで跡は追わなかったんだ。やつは充分楽しんで、最後には女を死なしちまうだろうからな」
 メージリアンは顎をさすった。「女は呪文を身につけていたか?」
「知らない。あの女がスラングの悪魔野郎からのがれるには強い魔法がいるだろう」
「ほかに言うことはないか?」
「ない」
「それでは死ね」そう言うとメージリアンはその生物をひじょうな高速度で旋回させ、どんどん速さを増したので、しまいにはぼんやりした霞のようになってしまった。押し殺したような悲鳴があがったかと思うと、ディオダンドのからだはばらばらになった。頭部が弾丸のように飛んで遠くの空地に落ち、腕や脚や内臓は八方にとび散った。
 メージリアンは先へと進んだ。樹間の空地のはずれで道は暗緑色をした蛇紋石の岩棚の上をつたった急勾配の下り坂となって、デルナ河へと続いていた。陽が没し、渓谷を闇が満たしている。メージリアンは河岸にたどりつくと下流に向かって歩きはじめた。行く手遙かに淡く光っているのは〈夢の海〉サンラ湖だ。
 不吉な臭気が風にのって漂ってきた。腐敗と汚物のにおいだ。メージリアンは用心しながら前進した。食屍熊スラングの巣が近いのだ。そのうえ大気には魔法の気配が感じられる。それも彼の微妙な呪文には見られないような力強く獣的な妖気だ。
 二種類の声が彼の耳にどどいた。スラングの発する喉にかかった声と、恐怖にあえぐ呼び声だ。岩の肩部をまわって声の源をさぐった。
 スラングの巣はその岩石にあいたくぼみ(・・・)だった。悪臭を放つ草と皮の堆積が彼の寝床の役目を果たしていた。彼がつくった粗末な檻のなかに女が三人とらわれていた。三人ともからだ中に無数の打ち身のあとがあり、顔には並々ならぬ恐怖の色を浮かべている。スラングは、絹で飾られた屋形船を湖畔近くに浮かべて住まう部族からその女たちをさらってきたのだった。女たちは彼がつかまえたばかりの女を押さえつけようとやっきになっているのを見守っていた。彼は丸く灰色をした、人間のような顔をゆがめ、人間のような手で彼女の胴着を引き裂いている。しかし女は驚くほどの機敏さで汗ばんだ巨体との間を保っていた。メージリアンは目を細めた。魔法だ、魔法だ!
 そうやって目を凝らしながら、女をきずつけずにスラングを倒せないものかと彼は考えをめぐらした。いっぽう、女はスラングの肩ごしに彼を見つけていた。
「ごらんなさい」と彼女はあえぎながら言った。「メージリアンがあなたを殺しに来たわよ」
 スラングはからだをよじって振りむいた。そしてメージリアンを目にするやいなや、荒々しいうなり声を発し四つんばいになって攻撃をしかけてきた。あとになってメージリアシは、この食屍獣がある種の魔法を使ったのではなかろうかといぶかった。奇妙な麻酔感が働きかけ、頭がくらんでしまったのだ。おそらくその魔法はスラングの荒れ狂った灰白色の顔と、相手をひねりつぶさんと突き出された巨大な両腕とを目のあたりにしたことによってひきおこされたのだろう。
 メージリアンは魔法を(それにかかっていたとして)振りはらうと、自分のもつ呪文を唱えた。火炎の光条が四方八方から降り注いで谷中を明かるく照らし出し、スラングの不格好なからだを蜂の巣のようにした。これぞ〈変幻虹しぶき〉――必殺の極彩色火炎線だった。スラングは高熱の雨に貫かれてできた無数の穴から紫色の血を流して、瞬時に息絶えた。
 しかしメージリアンはそんなことにははとんど注意を払わなかった。女は逃げてしまっていたのだ。彼女の白い姿が湖に向かって川沿いに走っていくのが見える。追跡を開始した。檻にとらわれている三人の女の悲痛な叫びには全く耳をかさない。
 ほどなく湖が眼前にひらけた。広大な水面(みなも)を限る向こう岸はぼんやりとかすんで見える。メージリアンは湖畔の砂地におりると、立ちどまって〈夢の海〉サンラ湖の暗い湖面をさぐった。宵闇の深まった天空の縁をかすかな夕映えが(いろど)っており、そのなめらかな天の原に星々がきらめいている。水面は冷やかで波一つ立たず、月が天空を去ってこのかた地球のありとあらゆる海や湖がそうであるように湖の満ち干がなかった。
 女はどこへ行ったのだろう? あそこだ。川の向こう岸の影のなかに青白い姿がたたずんでいる。長身のメージリアンは川岸に立ちはだかった。微風が外套の裾をかき乱す。
「オーイ、お嬢さん」と呼びかけた。「わしだ。あんたをスラングから救ってやったメージリアンだ。もっとこっちに来ないか? それでは話ができん」
「この距離でもあなたの声はよく聞こえるわ、魔法使いさん」と彼女は答えた。「近寄れば近寄るだけ、遠くに逃げなければならなくなるじゃない」
「いったいなぜ逃げるんだね。わしと一緒にもどれば、幾多の秘術を習得し絶大な力をもつこともできるんだぞ」
 彼女は笑った。「そんなものが欲しいんだったら、私がこんな遠くまで逃げると思って、メージリアンさん?」
「秘伝の魔法を欲しないとは、いったいあんたは誰なんだ」

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