第四章 アリス、廊下を歩く

 アリスはくるくると回りながら底なしの穴を落下していきました。
「またまた、落下の憂き目を見てしまったわ」アリスはちょっぴり気どって言ってみました。そのとき不意に、奇妙な生き物が飛んできて、アリスの落下にあわせて下向きに飛行しながら言いました。
「浮き目など見ちゃいないさ。あんたは落ち目なのさ」
 それは、カナリアのような黄色い羽のはえた魚でした。アリスはなにかまちがったことを言ってしまったのかと思い、ちょっぴり耳を赤らめました。でも、その魚はすぐに飛んでいってしまったので、赤くなったのを見られずにすみ、アリスはほっとしました。
「このまま落下していったら、落ち目どころか当り目になってしまうわ。どうしましょう」アリスがそうつぶやいたとき、目の前をイカの大群が横切りました。また何か言われるのではと思い、アリスはあわてて口に手をあてました。落下はまだ続きます。
 いつのまにか、四方は木目模様の壁になっています。途中で壁に雨傘が掛かっているのをみつけたアリスは、急いでそれをはずし、サッと開いてパラシュートの代わりにしました。
「これで一安心ね。でも、メアリーさんとまちがわれる心配があるわ……」
 そのとき、目の前を一本の矢がかすめました。すると、壁のハト時計が十二時を指し、上の小さな扉が開きました。なかからハエの群れが飛び出して、その矢のあとを追っていきました。唖然としながらふわふわ落ちていくアリスのそばに、またカナリア色の羽をした飛び魚が飛んできました。
「なにをぼんやりしているんだね。『時バエ、矢を好む』(Time flies like an arrow.)という諺も知らんのかね、近ごろの子供は」そういって、また飛び去っていきました。
 アリスはそのあとを目で追って、ぷくっとふくれました。
「わたし、お魚を嫌いになりそうだわ。今晩のおかずがムニエルだったりしたら、全部スノードロップちゃんにあげてしまいましょう」
 降下するアリスの目の前に、今度は壁に掛かった額縁が現われました。額縁に入っているのは時計の絵です。アリスが見守るうちに、絵の時計はぐにゃりと溶けてしまいました。
「あの時計はきっとチーズで出来ているんだわ。わたしが近づいたから、体温で溶けてしまったのよ。お月さまもチーズで出来ているっていうから、人間が近づくと溶けてしまうのかしら……。でも、溶けちゃう時計なんて、溶けない角砂糖と同じくらい役に立たないと思うわ。ただ、溶けた時計のほうは、絵になるっていうだけ取り柄があるけど……」
 そう言いおわったとたん、アリスはドスンと着地しました。傘をすぼめて、あたりを見回すと、まっすぐな廊下に立っていました。右も左もはるか彼方まで廊下が続いています。そして、両側の壁にはドアがいくつもいくつも並んでいるのです。
 アリスはためしに、自分の目の前にあるドアをノックしてみました――トントン。何の返事もありません。
「お留守かしら」と言いながら、アリスはノブをまわしてみました。鍵はかかっておらず、ドアは静かに外側にひらきました。なかをのぞき込んだアリスは一瞬びっくりしました。その部屋のむこう側にある大きな窓ガラス越しに、巨大なゴリラの顔が見えたのですから。
「マンネリだと思うわ」そうつぶやいて、アリスはドアをしめ、次のドアのところへいきました。またノックします。すると、ドアが少しあいて、長いくちばしを持った動物が首をちょっと出し、「再来週まで入場おことわり!」と言って、ぱたん、とドアをしめてしまいました。
 アリスは右のほほをぷくっとふくらませました。
「いよいよますますマンネリ千万だわ! あの名無しのごんべえさんは『鏡の国のアリス』のときも同じことしたじゃない」
 そのドアの前で立ちつくして考えこみました。
「もう、ほかのドアをあけてみるのやめようかしら。昔のことをかえりみるなんて、年寄りのすることですもの。――でも、『世の中のドアの九十%は屑である』っていう諺があったように記憶するわ。あとの十%に賭けてみようかしら」と、寛大な気持ちになり、隣のドアに歩み寄りました。ノックすると、なかから「どうぞ、ヒック、お入りください、ヒック」という女の人の声がしました。
 ドアをあけてなかへ入ったアリスは、お酒のにおいに息がつまりそうになりました。そこは体育館ほどもある大きな部屋で、床のほとんどをプールが占めており、そこに満たされているのが水でなくお酒らしいのです。
 声の主は、お酒のプールに浮かべた巨大な板の上に乗っていました。それは、ピンク色の地肌に、ブルーの大きな水玉模様がある、メスのクジラでした。酔っぱらったクジラは歌をうたっていました。

  ♪ わたしはアル中のカマクジラ
    ピンクにブルーの水玉よ
  (*1)

「こんにちは、クジラさん」とアリス。

  ♪ ようこそここへ、ヒックヒック
    かわいいお嬢さん……
   (*2)

「あら光栄だわ、『かわいいお嬢さん』だなんて。ところで、今、何時ころかしら。もう家に帰らなければならない時間じゃないかと思うんだけど……」
 すると、クジラは真顔になって答えました。「あら、そんなこと、恥ずかしくて言えないわ。エッチねえ」
 アリスは返す言葉がありません。また何かまちがったことを言ってしまったのかしら、と思いました。それともこの世界では、言葉の意味が違っているのかしら。たとえば、『かわいい』という言葉には、『髪の毛が鳥の巣みたいにモシャモシャで、めっかちで、鼻の低い』という意味があるのかもしれない。それだったら、ちっとも光栄なんかじゃないわ。むしろ腹を立ててしかるべきよ。でも、『腹を立てる』という言葉には、『しっぽをふって喜ぶ――もし、しっぽがない場合には右腕で代用すること』なんていう意味があるかもしれない。この世界にいるあいだは、使う言葉に気をつけなければいけないわ――と、ちょっぴり不安な面持ちで考えました。
 そのとき、クジラの乗った板と、アリスが立っているプールサイドのあいだの水面に、にょきっと潜望鏡があらわれたかと思うと、黄色い潜水艦が浮上しました。ハッチがあいて、なかから搭乗員が四人出てきました。そのなかのひとりが、背後に浮いている水玉模様のクジラを一瞥してから、アリスにたずねました。
「あのー、ペパーランドはここですか」
「わたしはこのあたりに不案内なんですけど、たぶん違うと思いますわ。そこにいるクジラさんにおききになったら……」とアリス。
 その人が振りむいてクジラにたずねようとすると、「違うんじゃない。よく知らないけど、ヒック」とクジラからたよりない返事。
 四人はがっかりして艦内にもどっていき、黄色い潜水艦はお酒の水面下へ沈んでいきました。それをシオに、アリスはカラフル模様のクジラに「さよなら」を言って、その部屋を出ました。出しなに、背後からまた歌がきこえました。

  ♪ You say good-bye
    I say hikku!
     (*3)

 次のドアの前に立ってアリスがノックしようとすると、突然、逆になかからノックがありました。
「こまってしまうわ。私、この廊下の住人じゃないから、答える資格ないんですもの」と迷っていると、またせっつくような調子のノックがありました。あわててアリスは、「はい、どうぞ」と答えてしまいました。
 すると、ドアが勢いよくひらき、ヘルメットをかぶり肩をいからせたスポーツ選手が、ボールをこわきにかかえて飛び出してきました。彼はドアをあけっぱなしにして、廊下を横切り、むかいの部屋にノックもせずに駆け込んでいきました。その男の人が出てきた部屋から、彼のあとを追ってさらに五十人ほどのヘルメット姿の選手たちが、どやどやと飛び出してきました。そして、ドアがあけっぱなしになったむかい側の部屋に飛び込んでいきます。その集団の最後のひとりが、出てきたドアをていねいにしめ、反対側の部屋に入ってから、そのドアもしめていきました。
「あら、どこかでアメリカン・フットボールの試合をやっているらしいわ。でも、私の知っているのと少しルールが違ってるみたい。第一、人数が多すぎるし……。それに、ドアをしめていかないと反則になるみたい。――ところで、アメリカン・フットボールときいたら、何だかポップコーンを食べたくなったわ」とアリスが言いおわるかおわらないうちに、選手たちが消えていったほうのドアがパタンとひらいて、へんてこな手押し車が出てきました。
 それは上部がドーム状になった黒い円筒形のストーブかお釜みたいなもので、横腹から煙突がつきでており、下部には車輪が四つついています。それを押しているのは、野球帽をかぶり灰色のユニフォームをきたブルドッグでした。車を押しながら「ポップコーン、ポップコーン。出来たてのポップコーン」と売り声をあげています。
「タイミングいいのね」と小声で言ってから、呼びかけました。「ねえ、ブルドッグさん」
 うしろから呼びかけられたブルドッグのポップコーン売りは、ぎくりとして、おずおずと振り向きました。「な、なんでしょうか」
「なんでしょうかって、決まっているでしょう。ポップコーンください」とアリス。
「えっ、ほんとうにこんなもの食べるんですか?」とブルドッグがけげんそうな顔でききました。
「できなければ、ホットドッグでも……」
 それを聞くと、ポップコーン売りはむっとして、縦長の黒いお釜のところにかがみこんで、なにかごそごそ始めました。「ちょっと待ってください。いま作りますから……」
 お釜のなかでポンポンとコーンがはぜる音がしはじめました。しばらくすると、お釜がゴトゴト揺れだしました。
「おや、調子がおかしいぞ。なにしろ、五年ぶりに作るんだからなァ……」とブルドッグがポップコーン釜の調節をはじめました。そのとたん、大音響とともにお釜が爆発して、真っ黒い煙がモクモクとあたりに広がりました。

(『第五章 アリス、目が覚める』に続く)


*1 エルザ「山猫の唄」(1973)のメロディで
*2 桜田淳子「わたしの青い鳥」(1973)のメロディで
*3 ザ・ビートルズ「Hello Good-bye」(1967)のメロディで

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