アリスの不思議な大冒険

第一章 アリス、リンゴのなかに入る

 もぐらが寝坊をしそうな天気のよい冬の日でした。アリスはリンゴの樹の下でねころんで考えごとをしていました。なぜ、リンゴは樹から落ちるのかしら? きっと地面がリンゴを引っぱっているんだわ。でも、お月さまはなぜ落ちてこないのかしら? アリスはもう少しで、ニュートンの次に万有引力の法則を発見するところでしたが、お月さまのことを考えると何が何だかわからなくなってしまいました。
 そのとき樹の陰から野ネズミが走り出てきました。乗馬ズボンに乗馬服を身につけ、頭にはチェックのハンチング帽をちょこんとのっけた、奇妙なネズミでした。野ネズミはだぶだぶの乗馬ズボンのポケットから目覚まし時計を引っぱりだすと、両手で顔の前にささえて時間を確かめました。それからまた苦労してポケットのなかにつめこむと、足を速めながら、こう言いました。「たいへんだ。おくれちまう!」
 そして、野ネズミのからだは、アリスの見ているまえでスゥーッと縮み、そばにころがっていたリンゴの虫食い穴のなかに飛び込んでしまいました。
 アリスはびっくりぎょうてんしました。
「まあ、どうしましょう。虫の食ったリンゴなら聞いたことあるけど、ネズミがかじったリンゴなんて、ちょっと困ってしまうわ」
 それで、野ネズミに注意するため、アリスもそのあとを追っかけて、虫食い穴のなかに飛び込みました。ふつうのときだったら、リンゴの虫食い穴に自分が入れるなんて思わなかったのですが、何しろアリスはその時とてもあわてていたので、そこまで考える余裕がなかったのです。
 なかに入ったとたん、下の方にころげ落ちてしまいました。穴の先はふつうの虫食い穴のような細長いほら穴になっておらず、何もない空洞だったのです。落ちたところは野ネズミの頭の上でした。
 野ネズミはおこって、言いました。
「上から落ちてくるなら、前もってそう言ってくれなきゃ、困るじゃないか」
 アリスはかえす言葉もなく、うつむきました。その時、かたわらから声がしました。
「失礼ですが、あなたがた、ウォルマを見かけませんでしたか?」
 見ると、そばにリンゴ食い虫がいました。
「メスのリンゴ食い虫なんですが……」
「さあ、見かけなかったわ。残念ですけど」とアリスは答えました。
「困ったなあ。どうしたんだろう」
 そこで、野ネズミがからだを乗り出してきました。「よかったら、詳しい事情を話してくれないかね。力にならんこともないが」
 虫は話し始めました。
「ウォルマっていうのは、僕の恋人なんです。ほんの二、三日前、このリンゴのところへやって来て、二つならんで穴をあけ、このリンゴを食べ始めたんです。芯のところでおちあう約束だったんですが……。もう、このリンゴをあらかた食べ尽くしたんですが、それでも、ウォルマの姿は見当たらないんです」
 アリスと野ネズミが見上げると、なるほどリンゴのなかはドームのようながらんどになっていました。
 野ネズミは少しの間、考えてから言いました。
「わかったぞ。君とウォルマさんが食べ始めたのは、〈二重のリンゴ〉だったのさ。つまり、二つのリンゴが全く同じ場所に同時に存在していたんだ」
「そんなこと、あるのかしら」と、アリスが小声で言うと、野ネズミが横目でじろっとにらんだので、すぐ口をつぐみました。
「見たまえ(と、野ネズミは、アリスたちが入ってきた上の方にある穴を指さしました)。穴が一つしかあいていないだろう。つまり、ウォルマさんは、同じ場所にあった、もう一つのリンゴを食べ始めたんだ」
 虫はそれを聞いて、困りきってしまいました。
「そう困ることはない」と、野ネズミがなぐさめました。「もう一つのリンゴに行く道はないでもない。君、自分のしっぽに口が届くかね。よろしい。それなら、そのしっぽを、どんどん飲み込んでごらん」
 虫は言われた通りに、必死になって自分のしっぽを飲み込みました。アリスが見ているうちに、虫はくるくると丸くなり、その輪が次第に小さくなっていきました。もうこれ以上飲み込めないという段になると、苦しそうに、目に涙をうかべて野ネズミの方を見ました。
「もっと、もっと」と野ネズミが言いました。
 虫は、死にものぐるいで、さらに自分のからだを飲み込みました。すると、どうしたことでしょう。プコンという音とともに、虫の姿は消えてしまいました。
「アラッ」とアリスは叫び、野ネズミの方を見ました。野ネズミは自慢そうに胸をそらせて言いました。「なあに、ちょっとした位相幾何学の問題さ」
 アリスには何のことかわかりませんでした。
 それから野ネズミは思い出したように叫びました。
「たいへんだ。ひどく遅刻をしてしまった!」
 そして、あたりをきょろきょろ見回し、おちつかないそぶりになりました。
「いったい、何に、そんなにおくれてしまうって言うの?」
「ポロの試合があるんだ」そう言うと、野ネズミはリンゴの壁をかじって穴をあけはじめました。アリスはあきれてその様子をながめていました。やがてポコッと穴があいて、野ネズミはそこから首を外に出しました。それから、首を引っ込めて言いました。「こりゃあ、困った。外は海だ」
 アリスがびっくりして、穴から外を見ると、なるほど、青い水が穴の五○センチほど下から遥か彼方の水平線まで広がっていました。
「仕方がない。泳いで行こう」と言うと、野ネズミは穴から飛び出そうとしました。
「待って。ネズミが逃げ出すのは、船が嵐で沈むまえぶれだって言うわ。私も連れてってよ」とアリスが心配そうに言いました。
「どうぞ、ご勝手に。おくれたら罰金ものだ。罰金どころか首がとぶ」そう言うがはやいか、野ネズミは、ざんぶと海のなかに飛び込みました。アリスもあとを追って飛び込みました。
 すると、今まで晴れていた空が一天にわかにかき曇り、大つぶの雨が降ってきました。風も吹き出し、波がうねりはじめました。
「まあ、本当に嵐になったわ」と、アリスは野ネズミのしっぽにつかまって泳ぎながら言いました。と、見る間に、今までアリスと野ネズミが入っていたリンゴは、海のなかにぶくぶく沈んでしまいました。

(『第二章 アリス、方舟に乗る』に続く)

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