第二章 アリス、方舟に乗る

 アリスは荒れ狂う海の水面を藻くずのように漂っていました。と、大きな波が襲いかかってきて、再び水の上に顔を出したときには、野ネズミの姿は消えてなくなっていました。
「あら、あら、野ネズミさん、どこへ行ってしまったのかしら。ポロの試合におくれるって言ってたけど、このお天気では、試合は中止になるわね。それとも、これは局地的な豪雨(アリスはこういうむずかしい言葉を使うのがとても好きでした)にすぎないのかしら」
 そんなことを考えていると、アリスのからだがフワッと宙に浮き上がりました。気がついてみると、船の甲板のようなところに引き上げられているのでした。先端に鉤のついた長いさおを持った猫が、そばに立っています。その猫は水兵服を着ていました。
「あなたが私を助けて下さったのネ。どうもありがとう」と、アリスはお礼を述べました。けれども、猫の方はその言葉に見向きもせず、ちょっと離れたところにいるもう一匹の猫に向かってこう叫びました。
「船長! ぼろぎれが流れているのを拾いましたァ」
「雑巾にでもしろ」と船長が答えました。
 アリスはこれを聞いて大いに憤慨し、プッと頬をふくらませて抗議しました。
「私は、ぼろぎれなんかじゃなくてよ。ちゃんと、アリスっていう名前だってあるんですから。雑巾だなんて、まっぴらだわ」
 すると、水兵服の猫が言いました。
「船長! アリスという名前だと言っておりますゥ」
 すると、船長がこう答えました。
「そうか、さぞかし昔は名のあるぼろぎれだったのだろう。ノートルダム寺院のステンドグラスをみがいたぼろぎれかもしれん。それでは、わしの部屋のテーブルふきにしろ」
「まあっ。どっちだって同じようなものだわ。とにかく、どっかで服をかわかせてちょうだい。ぬれネズミになってしまったわ」
「船長ォ! このぼろぎれは自分がネズミだと主張しておりますッ」
 船長はびっくりして、飛んで来ました。そして、アリスの顔をのぞき込んでから、納得したように水兵に言いました。
「このぼろぎれは気がふれておるようだ。船医のところに連れて行け。雑巾にするのは、それからだ」
「あら、さっきと約束が違うじゃない。テーブルふきだと言ったくせに」と、アリスはまたプッとふくれました。
 猫の水兵はアリスのえり首をつかみあげ、船医の部屋に連れて行きました。白衣を着て聴診器を首からさげた猫の船医は、アリスを頭のてっぺんからつまさきまでながめると、一言、「ふむっ」と言いました。
 それから机のひきだしからなにやら紙の束を取り出し、その一枚を机の上に立てて、アリスに見せました。紙には対称形をしたインクのしみがついていました。
「これ、何にみえるかね?」
「ロールシャッハ・テストとかいうものに見えるわ」とアリスは得意げに答えました。アリスは、この言葉を一息で、つっかえずに言えたものですから、内心とてもうれしかったのですが、あまり自慢してこの船医さんを自信喪失におちいらせてはかわいそうだわ、と考えて出来るだけ笑顔をおし殺しました。
「ふむっ」と船医は答え、その紙を残りの紙の束と一緒に、また机のなかにもどしてしまいました。それから、ピンと張ったひげを指でしごきながら黙りこくってしまいました。と、そのとき、ドアがいきおいよく開いて、作業服を着た猫が飛び込んできました。
「大変です。様子のおかしいのが一匹いるんです。すぐ来て下さい!」
 それを聞くや、船医はガバッと立ち上がって、その猫のあとを追いました。アリスもそのあとからついて行くと、とてつもなく広い部屋にたどりつきました。
「まあっ。このお船は動物を運んでいるのね。でも、この動物、なんていう名前なの?見たこともないわ。それに、ずいぶんたくさんいるのね。私がベッドに入っても寝られないときに数える羊さんの数よりもずっと多いわ」
 船医がじろっとアリスの方を見て、「君、知らんのかね。獏っていう動物じゃよ。夢を食って生きとるんじゃ」と説明してくれました。それから、作業服を着た猫のさし示した獏の容体を調べ始めました。
「こりゃ、消化不良だな。しかし、獏が消化不良になるなんて考えられんことだ。いったい、どんな夢を食ったのじゃろう」そう言って船医は考え込んでしまいました。
 アリスはその獏に近づいて、ものめずらしげにながめました。
「まあ、かわいそうに。こんなにやせちゃって。首に名札がかかってるわ。あら、〈アリス〉っていうのね。私と同じ名前だわ!」
 それを聞くと、船医はびっくりして、飛び上がりました。
「何だって! 夢を見ている本人がこの船に乗っているのか。それでは獏が消化不良になるのはあたりまえだ。おい、だれかこいつを船外に放り出せ!」
「あら、この獏、私の夢を専門に食べて下さってるの。光栄だわ。でも、船外に放り出されるのはいやよ。何をするの。誰か助けてェ」
 いやがるアリスを二人の猫の水兵がかかえて、連れ去ろうとしました。その時、部屋の外で「嵐がやんだぞゥ」という声がしました。
 すると、みんな、アリスをほっぽり出して、甲板に飛び出しました。アリスも、そっとあとからついて行くと、なるほど嵐はおさまって、海はかなりないでいました。
 そばで船長が水兵に命令していました。「水のひいたところがあるかどうか、鳥を飛ばして確かめてみる。おまえ、わしの部屋にいる鳥を持ってこい」
 水兵が取りに行って持ってきたのは、鳥かごに入ったコウノトリでした。
「まあ、ずいぶん変な鳥を飼っているのね」と、アリス。
 水兵はかごのフタをあけて、鳥をときはなしました。コウノトリはみるみる見えなくなってしまいましたが、やがて、何かをくわえてもどって来ました。それは布につつまれた猫の子でした。
「コウノトリが赤ん坊を運んで来るっていうのは本当だったのね」と、アリスはあきれて見つめました。
 それからしばらくして、船は水面から顔を出した山の頂上に着きました。山のてっぺんには〈アララテ山〉という立て札が立っています。
 いつしか水はすっかり引いており、猫の水兵たちは、乗せていた獏を全部、船からおろしました。それから、どこからか馬を引っぱり出し、それぞれの馬の鞍にうちまたがった猫たちは、カウボーイのように獏を追い立てて山を下っていってしまいました。
 それを見送っていると、どこからか、あの野ネズミが大きな優勝カップをかかえてよたよたと歩いて来ました。
「やあ、またお会いしましたな」と、野ネズミはカップを置いてあいさつしました。
「どうなさったんです、その優勝カップ」
「わがチームがポロの試合で優勝したんですよ」
「あら、なかで何か音がするわ。何かしら」
 本当にカップのなかからカチカチと音がきこえてきます。アリスと野ネズミは、両側からカップの把手に足をかけて、二人してフタのなかをのぞき込みました。なかでは、白ウサギが手動計算機の前にかがみ込んで、ハンドルをくるくる回しながら、しきりに何か計算をしていました。
「何を計算していらっしゃるの」と、アリスが尋ねました。白ウサギは二人を見上げてから、また計算機に目をもどし、計算しながら言いました。
「もう少し待って下さい。今、結果が出ますから。やや、これは大変だ。このアララテ山は、あと三分二十七秒後に大噴火するぞ。二人とも、はやくこのなかに入って!」
 アリスと野ネズミはびっくりして、言われるままに優勝カップのなかにもぐり込みました。三人が入るとなかはもういっぱいでした。野ネズミがポケットから目覚まし時計を取り出して秒読みを始めました。
「……十、九(この時、地響きが始まりました)、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロッ!」
 ものすごい爆発音とともに、三人を乗せた優勝カップはロケットのように大空に向かって飛び出しました。

(『第三章 アリス、プリン畑に行く』に続く)

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