医師は席を立って、診察室のむこう側にあるあかりのスイッチをいれた。それからキャビネットのところでせわしそうにしながら言った。「いまコーヒーをいれるから。きみが話しているあいだ考えていたんだけど、きみは幸運だったよ、どこかしら普通の人と違うところのある人は、たいていつまはじきにされて、最下層民のような思いを味わうものだ。見たところきみは、まあまあ並みの幼年期と青年期を送ってきたようだ」
「そんなことはありません」彼女はそう言いながら、ちょうど沸きはじめたコーヒーの香りをかごうと彼に近寄った。「私、八年生のときに学校をやめなければなりませんでした。だって体育ができなかったんです。ほら、シャワーがね。体育を休むにはお医者さんの診断書がいるんです。私たちはまた引っ越しました。それから、人には私が十七だって言ったんです。うまくいきました。でもパプは、私に家で勉強させました。順序立ててやったわけではありません。その町の図書館の本を読みきってしまうと、ほかへ移るというふうにしました。いつも小さな町を選び、田舎で暮らしました」
 医師は二つの大きめのマグカップにコーヒーをつぐと、それを運んでデスクのところにもどった。ジェニーは彼の動きのぎこちなさについて考えた。たぶん古い戦傷のためだろう。彼の顔には苦痛を思いおこす表情が見てとれた。痛みを知らない者の顔には見られない、思いやりのある優しい顔つきだった。
 彼女は医師のあとについて部屋を横切った。翼は広げられて、足は床にかろうじて触れていた。医師の目は翼にしっかり釘づけになっていた。彼女は翼をしっかりたたむと、マグカップを手に取った。彼は目を閉じ、すこし間を置くとたずねた。「きみを閉じこめたというのはだれなんだね」
「お医者さんです」彼女は力なく言った。「ある日、私は外に出ました。そして、岩の多い斜面に降り立ったんです。私のせいなのか、偶然出くわしたのかはわかりませんけど、岩がくずれはじめて、逃げ出す前にその一つが片方の肩にあたりました。どうにか家に帰りつきましたけど、気を失って、パプを死ぬほどびっくりさせました。目がさめてみると病院にいました。肩には包帯が巻かれ、着ているガウンは背中で結ばれていて、手がとどきませんでした。自由になれず、窓には鉄格子がありました。私、ぞっとしました。お医者さんが何かの書類にサインさせようとしました。そうすれば私の手術ができたんです。どうしてもサインをしないと、私に注射をうちました。つぎに気がつくと、パプが散弾銃をもってそこにいて、私のガウンを切りはがしていました。私たちは逃げ出しました。なんと、そのときは文字どおり走ったんです」
 リンドクウィスト医師は立ち上がって、彼女のそばにやってきた。当惑げに彼はたずねた。「なぜ彼はそんな手術をしたがったんだね。きみの翼がなくなったら、彼にどんな得があったんだ」
「その先生は翼を切りとろうとしたんじゃないんです」彼女はいまわしげに答えた。「私が飛べないように、筋肉を何本か切断しようとしたんです。彼はパプに、そうしなければ私が死ぬだろうと言いましたが、パプもぜったいにサインをしませんでした。その先生はどうにかして先へ進めようとしました。それから、同僚たちに私を見せたり、論文を書いたりしようとしました。そうして自分が有名になったら、手術して私を正常にするつもりだったんです」
 リンドクウィスト医師はひとこと毒づくと、横をむいて二つのカップにコーヒーをつぎたした。
「きみはなぜ今になってここに来たんだね。それから、どうして私のことを知ったんだい」
 ジェニーはカップをもって立ちあがると、窓のほうへ行った。彼に背を向けたまま、小声で言った。「私さっき、男の子について知ったって言いましたけど、でも違いました。ほんとうに知ったんじゃないんです。あの、手術されそうになったあと、私ほんとうに具合が悪くなって、飛ぶことができませんでした。新しい近所の人たちの何人かと知りあいになりました。ひとりの男の子がいました……。そのころには、私はほんとうに十七歳になっていました。彼は十八か、十九でした。彼はよくやってきて、すわって私を見てました。とても無口でした。私は彼の夢を見るようになりました。うちにはハンモックが一つあって、引っ越すときはいつもそれをもっていきました」そこで彼女は言葉を切った。しかし、医師がうなずいたので、説明をはぶいて続けた。「そしてある晩、私がそれに腰かけていると、彼がキャンディを一箱もってやってきたんです。彼は地面に腰をおろすと、草を一本一本むしりはじめました。結局、私にプロポーズするまで漕ぎつけるのに一時間近くかかりました。いまにも彼が切りだしてくるのがわかって、私は心配になりました。でも、どうやってやめさせたらいいのかわかりませんでした。私はただそこにすわって、ジョニー・ローランドのことを思い出していました。彼が私に触れたときのあの叫び声を……。とにかく私は何も言えませんでした。だって、あのことの前にジョニーの手が触れたときの感触や、そのときの私の気持ちも思い出したんですもの……」彼女は弱々しく笑うと、とりすまして腰をおろし、両手を膝に置いた。「私のことを、なんていいかげんな女だと思っているのでしょうね」
「そんなことはないよ。ジェニー。私はきみを……。気にしないでくれ。で、どうしたんだね」
「彼に、一時間したらもどってくるように言いました。そしてパプに買い物に出てもらってから、服を脱いでローブを身につけました。その子はもどってくると、居間にはいってきました。私、ローブを取りました」彼女は医師の顔におかしそうな表情を見てとった。すぐ大声で言った。「ああ、ひどいもんだったわ! 彼を見せたかったわ! 私が望んだのは彼が愛を告げてくれることだけだったのに、彼ったら、ひざまずいて祈りはじめたの。ゆきすぎだわ。腹が立って、急に彼が子供っぽくて、無知で迷信深い愚か者に見えたの。私はできるだけおそろしい声で言ってやったわ。私はおまえのこれからの人生を見守っているぞ。おのれの罪を悔いあらためるがよい――ってね。そして飛び去ったの」
 医師は長いあいだ笑っていた。「ジェニー、ジェニー」と彼は言った。「それできみは、まさに悪戦苦闘して、自分に男性の心がつかめることを確かめようとしたわけだ」
「そうなんです」彼女はぽつっと言った。「でもだめでした。ある人は走り去ると、刈込み用の大ばさみをもってもどってきました。また別の人は気絶してしまいました。つぎの人はニューオーリンズのどこかで聞き覚えた聖歌をぶつぶつ歌いはじめました。最後の人は、私が人間のお腹から生まれたのか、卵からかえったのかってききました。その人に一生忘れられない飛行を経験させてやったわ! でももう、そういったことにうんざりして、あきらめたんです。今までは」
「ジェニー」医師は真顔でたずねた。「きみは、羽のことを知っている男性にキスされた

ことがありますか」
 彼女は医師のほうを向くとうなずいた。「急を要するのは、そのことなんです、先生。今度は本物の恋をしたんです。彼は私を愛してくれてます」
 医師は向きをかえるとデスクのほうへ歩いてゆき、そのむこう側に職業的に腰をかけた。彼の態度が微妙に変わったことが、ジェニーを当惑させた。ほかの患者のまえではこういう態度をとるに違いない。さきほどまでのにこやかな思いやりのある人柄というのは、仕事以外の客に接するときのものなのだ。彼がデスクのところに行かなければよかったのにと彼女は思った。「それで、きみの知りたいのは、私にその翼が切りはなせるかということなんだね?」彼はたずねた。
 翼が反射的にもちあがるのが、ジェニーにはわかった。
「違います! まさか!」どうにか気をおちつけて、また腰をおろした。「わからないんですか。そんなことできません! それは考えたこともありますけど、でもできません。たとえばもし、世界中で青い色を見ることができるのが先生だけだったとして、ほかのだれにもそれがわからないからというだけで、その力を捨てますか?」彼女は指の爪をつぶさにみつめた。「私、たくさん本を読んだって言いましたね。ああ、クズよ!」彼女はふいに泣き叫んだ。「私の知っていることはそれで全部! 本で読んだことだけ!」
 リンドクウィスト医師は身をのりだして言った。「つまりきみは、生命の秘密をきかせてほしいと言うのかね?」
 彼女はしゃくりあげると、彼の不審げな視線にたじろいだ。
「ちょっと違います」と口ごもりながら言った。「生物学の本を何冊か読みました……。私が自分に子供ができるかどうか関心をもつのは当然です。それと子供が私みたいになりそうなのかも……それから、どうやったら……」彼女の声は、最後にはほとんど聞きとれないくらいだった。「どうやったら、私あれができるんでしょう。このいまいましい羽が、何かにつけてじゃまになるんです」
 彼は堰を切ったように大声で笑いだすと、なかなか話をはじめなかった。彼が笑いやむまで、ジェニーはむっとして彼をみつめていた。
「ぜんぜんおかしいことだと思いませんけど」といきまいた。「私にとってはとても深刻な問題なんです」
「ああ、ジェニー」彼はあえぎながら言った。「ごめん、ごめん。ちょっと待ってくれ」彼はぎこちなく部屋のむこう側へ行くと、ガラス戸つき本棚のなかの本の背に指を走らせた。「ああ、これだ。それからこれ」さらに三冊目の本を抜き出した。うやうやしくおじぎをして、その三冊の本を彼女の前に置いた。「これで二番目の問題は解決するだろう。最初のに関しては……きみを検査しなければならないね」
 彼女は下唇をかんで、目を伏せた。彼が検査室に彼女を連れてゆくと、検査台のところで彼女が首を横に振ったので、とまどったようだった。「だめです」彼女はつぶやいた。「わからないんですか。私、あおむけになれないんです!」
「おちつきなさい」彼はうなるように言った。「あおむけなんて言ってません。わき腹を下にして。もしきみが妊娠したそのときには、きみのお医者さんに主のあわれみのあらんことを!」
 彼女はまごまごしながら検査台をみつめ、医師のほうをふりかえったが、医師は流し台に身をかがめて手を洗っていた。細い声で彼女はたずねた。「全部脱ぐんですか?」
「そうするのがふつうの手順だよ」彼はすげなく答えた。
 ゆっくりした動作で彼女はパンティを脱ぎ、シーツをとめてあるピンをはずした。検査台に近づいてゆくと、彼がそばにやってきて手をさしのべた。「手をかそう」と彼は言った。彼の手が触れると、彼女ははた目でわかるほどの身震いをした。彼の視線がからだをよぎると、自分の顔や首筋が紅潮するのがわかった。急に彼は顔をそむけた。「またシーツを掛けて」としゃがれ声で言った。「X線透視で検査します」
 彼は装置のうしろの彼女の位置を直すと、ドアをしめた。「目がなれるのに数分かかります」ひじょうに職業的な声でそう言った。短い沈黙のあと彼はたずねた。「なんで、今度は自分が恋をしているって思うんだね?」
 ジェニーはからだに押しつけられている装置の冷たさを感じた。彼女はため息をついた。「私、春を追いかけてミシシッピから北のほうへずっと飛んでいきました」と言った。「木々が花をつけはじめると、まず農家の人たちが出てくるの。つぎに凧をもった小さな男の子たち、それから恋人たち」彼女はまたため息をついた。「私は山々の上空を飛んで、春の観察みたいなことをしていました。花が咲いている桃の木があったので、ピンオークの木に腰かけて、ピンクの花が青空に映えているのを見てました。すると突然、車のぶつかる音がしました。それがスティーヴだったんです。けがをしていないかと、私、降りていってみました。彼はとてもハンサムでした……。当然、彼をひとりおきざりにして、凍えさせるわけにはいきませんでした。そうしたら、凍死してしまったでしょう。それで一晩中、彼をだいて、私の羽をふたりのからだに巻きつけていました。彼は衝突で足首をけがしていました。それだけでしたけど、朝までは助けを求めに、道路までずっと歩いてゆくことなどできませんでした」
 彼女が言葉を切ると、医師が間近からとても信じられないといった声でこうたずねた。「そんなふうにして恋におちたのかね」
「そうじゃありません」と彼女は言いかえした。「彼は気を失っていました。だから私、彼を助けなければならなかったんです。そうじゃありません?」
「彼が気を失ったのは、きみがすっぱだかで飛びまわっているのを目にとめる前だったのかな、後だったのかな」医師は辛らつな口調で言った。「それから、そのことに関してだが、きみはいつもそんなかっこうで飛んでいるのかね。尻が風やけになってるじゃないか」
「ああ」と彼女は叫んだ。「ほら、そこが彼の違うところなんです! 彼は絶対にそんなこと言いません! ほとんど夜のあいだ中、私の存在を信じることもできなかったんです。彼は自分が気が狂ったのだと思い、私のことを天使だと考えました。彼の話し方はとても……とてもすてきでした。いままであんな話し方をしてくれる人はいませんでした――羽を見ていなくても」
 医師の嘲笑めいた短い笑いがあった。彼が装置をいじると、装置にあかりがともった。また口をひらいたとき、彼の声はくぐもって聞こえた。「それで、きみは彼を恋してしまった」
「はい」彼女はぼそっと言った。「彼と恋におちたんです。私、本に書いてある恋とそっくり同じように感じて、その真っ只中でぞくぞくっとしておかしな気分でした。彼も同じふうに感じていました。朝まで彼といっしょにいると、車が来るのが聞こえました。それで、彼は私にキスして、それから私、今晩彼

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