の小屋に行く約束をしました。私たち結婚するんです」
「おお、いいぞ」医師は大声で言うと、装置のスイッチを切った。「だいじょうぶだ。すべてあるべきところにある。来なさい」彼はドアをあけておいて、彼女のあとから診察室にはいった。「もし彼がきみのことをそんなに好きだったら、なぜ一週間も延ばすんだね。なぜきみはすぐに彼のもとへ行かなかったんだ。いやそれより、なぜ彼といっしょに行かなかったんだ」
「彼は仕事で町へ行かなければならなかったんです。それに、足首をお医者さんに見せなければならなかったし。それがすんでから山小屋にもどって、私を待っていてくれるんです。ロマンティックでしょう? 山小屋なんて。それから私も、しなければならないことがいくつかあったんです」
「私の診察室に乱入するといった?」
「あんなことしたくなかったんです」彼女は言いかえした。「おたくのあのばかな看護婦は、自分を神様だと思っているのよ。先生はあの人のせいで、きっとお仕事をたくさんのがしてます」彼女は深く息をついた。「今日はおじゃましてすみませんでした。心からおわびします。先生の夕方の時間をだいなしにしてしまいました。きっと奥さんが心配して……」
「私は結婚していません」と彼は口をはさんだ。
「えっ?」ジェニーは彼をちらっと見て、無意識に頭を振りかけた。「とにかく」彼の気持ちを考えてそれにはふれずに、彼女は言った。「いくつかの疑問の答えを知らなければならなかったんです。スティーヴが――それが彼の名前です――行ってしまってから、家に飛んで帰って、私を取りあげたお医者さんの名前をパプから聞きだしました。それからテネシーに行ってその先生を捜しだしました。彼はちゃんと覚えていましたけど、私はうちあけることができませんでした。彼はとっても歳をとっていたんです。信頼できるお医者さんを必要としていると言ったら、先生の名前を教えてくれました。彼は言ってました。先生は奇形が専門だということ、人々を助けることに人生のすべてをささげているということ、そして、彼らが対等にあつかわれるよう手助けをするために、外に出て彼らを訪ねているということも。それで私、ここに来たんです」
医師は椅子に浅く腰かけて、静かに彼女を見た。「今度の男性は確かなのかな、ジェニー? 愛することと、のぼせあがることの違いがわかるかい。春が、美しい孤独な女の子になにをするか、きみは考えたことがあるのかい」
彼女はうなずいた。自分がまた赤くなっているのがわかり、彼がデスクに置いてくれた本を、思わず知らず片手でつかんだ。
「そこにあるきみの持ち物をもって、服を着なさい」ぶっきらぼうに彼は言った。「それとも飛んで行くつもりかい」
視線が窓のほうに向き、彼女はまたうなずいた。
「ちょっと待ちなさい」と彼は命じた。隣の小部屋にはいってゆくと、大きなクリームの瓶を持ってもどってきた。「これを全身に擦りこみなさい。すぐにしみこんで、風やけや風邪になるのを防いでくれるだろう」ジェニーがびっくりした顔で彼を見ると、彼は肩をすくめた。「私の患者に、ほとんど水中で生活している人がいる」と彼は説明した。「彼はまるで鰓と肺をもっていて、鰓を使うほうが好きなようなんだ。そのクリームが彼のからだを温かく保っている」
彼女はなにもいわずに瓶をもって更衣室にはいり、クリームをからだに擦りこんだ。それはすぐに跡形もなくしみこんだ。彼女はためらいがちに窓辺で立ちどまった。「先生」と言った。「ありがとうございました。もし、先にスティーヴと出会っていなかったなら……だって、先生はすごく親切でしたから……」彼女はシーツをおとし、本をしっかりつかむと、空中に舞い上がった。町から吹きあげてくる暖かい上昇気流で翼がはらむのを感じながら、上昇し、からだを傾けて旋回した。窓のほうを見たが、もう彼の姿はなかった。彼女は西に向かって上昇を続けた。
彼女は山小屋へとあやまたず飛んでゆき、木々のあいだの空き地についたときようやく速度をゆるめた。心臓がはげしく鼓動していた。医師がくれた軟膏のおかげで少しも寒さを感じないにもかかわらず、自分が震えているのがわかった。胃が、ほんとうの痛みではない痛みで、気持ち悪かった。翼をからだの近くに引きよせ、木々のあいだをかすめて飛ぶと、空き地をとりかこむ木々のひとつに舞いおりた。彼女はがっしりした枝に腰かけて、心臓の鼓動が静まるのを待ち、急な脱力感からぬけだそうとした。いつのまにか煙が漂っているのに気がついた。たばこの煙だった。何かの動く気配もあった。彼女は木の幹に背中を押しつけ、耳と目をそばだてた。
やっと男と女の人影が見わけられた。女は木の幹でたばこをもみ消していた。ジェニーは枝の上で腹ばいになり、翼をからだにおおいかぶせた。ふたりが近づいてきた。
「スティーヴ、もしこれが悪ふざけだったら……」女はおどすような低い声で喋っていた。
「あの娘を見れば、悪ふざけだなんて思わないだろうぜ」彼が小声で言いかえした。「あの空き地から目を離さないようにな。あの娘が――あいつが――何でもかまわないが、いまに姿を見せる。その仮面を手にいれるのに骨が折れたかい」
「いいえ。かかわりをもつのはいやだわ、やっぱり。女の子に羽があるからっていうだけで、その子を誘拐してサーカスにいれるなんてできないわよ。その子は喋ったり叫んだりできるんでしょ?」
「俺がヤクを手にいれりゃあ、できなくなるさ」と彼はつぶやいた。「畜生、あの羽ときたら! 広げりゃ優に十二フィートはある
ぜ! その鳥の仮面をつけて、口はテープでふさいどきゃあ……。俺たちのしなくちゃならねえのは、あの娘をちゃんとヤク漬けにしておくことだけさ。そうすりゃ、おめえ、金がころがりこんでくるって寸法よ! シーッ!」ふたりは黙りこんだ。ジェニーも耳をすました。「羽の音が聞こえたと思ったんだが」スティーヴがぼそっと言った。「いいか。おまえはここで見張ってろ。俺は戸口のところに行っていたほうがいいな。あそこなら、あの娘が近づいてきたときに、俺の姿が見えるだろう。おまえのすることはわかってるな?」
「わかってるわよ」女の声がかえってきた。「あんたがその子をなかにいれたら、そのあとから戸をしめて、かんぬきを掛ければいいんでしょ。あんた、ほんとにその子をあつかえるの?」
彼は笑った。ジェニーは彼が山小屋のほうへ歩いてゆくのを見守った。すべてが忘れ去られ、彼女の心は氷のように冷たい激怒でいっぱいになった。彼が戸口で立ち止まってマッチをつけるまで待った。注意深く、木の曲がったところに本を置いた。それから、フクロウのように静かに女めがけて急降下し、音もたてずに彼女の腰に片腕をまわしてつかまえ、もう一方の手で口をおさえ、同時に急上昇した。地面から十五フィートほど離れるまで、女はすこしもがいたが、そのあとぐったりとなった。ジェニーは女をかかえて一マイル先の道路まですばやく飛んでゆくと、木のてっぺんに彼女をおろした。五、六回乱暴に平手打ちをくわせて、意識がはっきりしたのを確かめると、木にしがみついている彼女をそこに置き去りにした。ジェニーは山小屋へもどった。スティーヴは戸枠によりかかっていた。
彼女はよく見えるように大きく円を描いてから、ゆっくり下降し、彼から三十フィートはなれて着地した。彼女は立ち止まって両腕をさし伸べた。スティーヴは一瞬ためらったが、彼女のほうへ走ってきた。
「ダーリン」と彼女の髪のなかにささやきかけた。「来ないんじゃないかと心配したよ」首筋にかかる彼の息が温かかった。ジェニーは彼のからだに両腕をまわして、しっかり抱くと、翼を広げて飛びあがった。スティーヴはしわがれ声で叫び、彼女にしがみつこうとした。彼女は笑った。「下を見てごらんなさい、スティーヴ」と彼女は静かに言った。「ほんとうに放してほしいの?」
「ジェニー」彼は叫んだ。「息ができない。下に降りよう。こんなのおかしくないよ」
「すぐにね」と彼女は優しく言った。「もうすぐよ」彼を抱えて飛び続け、谷あいにはいり、観光牧場とその囲いを通り過ぎた。彼女は近くに立入禁止区域を見たことがあった。もしそれほどはやく疲れてしまわなければ、その場所を正確に思い出せると思った。黙々と彼女は飛び続けた。やがて眼下に見覚えのある土地があった。兵隊と犬が駐屯して警備を固めている軍用区域だ。彼女はレーダーを避けて低空飛行し、地上二十フィートをかすめるように飛びながら、丘の反対側にあるはずの湖を捜した。飛ぶ速度をおとすと、彼女は残念そうに言った。「スティーヴ。どうやら私、疲れてきたらしいの。甘い言葉でこれを切り抜けてみせて、愛しのスティーヴ」彼はしがみつこうとしてジェニーをつかんだが、彼女はそれを振りはなした。そして、悲鳴をあげながら落ちてゆく彼のまわりをぐるぐる回った。彼がたてた水音に応じて、すぐに人の叫び声と犬のほえ声があがった。木々の梢のわずか数インチ上を、彼女は音もなく飛び去った。
そして怒りは燃えつき、彼女は力をぬいて滑空した。当てはなかった。さあどうするの、ジェニー?――と、悲しげに自分に問いかけた。たぶんリンドクウィスト先生のところへもどって、私を正常にする手術をお願いすることになるだろう。彼はとても親切だった。それに、本を返して、結局いらなかったと説明しなければならない。彼は私のことを美しいと言ってくれたから――たぶん――突然、彼女はびっくりして悲鳴をあげ、急な横転をして、完全にひっくりかえしになり、背を下にして漂いながら、必死にあたりを見まわした。何かが彼女に触れたのだ! そのとき、二本の腕が彼女の腰にまわされ、温かいからだが彼女の背中に押しつけられた。
彼女は頭をひねって振りむき、息をのんだ。「リンドクウィスト先生!」
「トアって呼んでいいよ」彼はジェニーの耳にささやいた。今度は彼がからだをよじって自分たちの向きを直した。そして、つぎのわずかな動作でふたりは大空に向かった。彼らは完全に呼吸を合わせて飛んでいた。
「なぜ話してくれなかったんです?」と彼女は問いただした。自分が震えているのがわかった。彼がとてもぎこちなかったわけというのはこれだったのだ。彼の翼がからだに巻きつけられていたのだ。
「話したかったよ。きみの翼をこの目で見てこの手で触れるまでは信じられなかったんだ。そのあと、きみが恋をしていると言ったので、そうではないことをきみにわからせなければならなかった。きみはわかってくれるだろうと思った。青空に映えた桃の花にきみは恋をしたのさ」彼の両腕はもう彼女をささえていなくてもよかったので、両手が急がずに彼女のからだの上を動いた。
「ああ」と彼女は息をついた。彼の笑い声が彼女の耳にやわらかく響いた。
「気流がある」と彼は優しく言った。「ちょっと滑空しよう。ぼくたちは二、三時間この空にとどまるんだ。話し合うことがとてもたくさんある。することもたくさんある」
ジェニーは意外にも自分が少しも震えていないことに気がついた。
□おわり□