翼のジェニー

Jenny with Wings

ケイト・ウィルヘルム
さとう@Babelkund訳

「もうしわけありませんが」と看護婦は言った。「診察は予約制になっているんです。電話で申し上げましたよね」
「三週間先でなければ診てもらえないっていうことだったわ」ジェニーは言った。「私、三週間も待てません。急を要するんです」
 横柄な看護婦は、女性特有のあからさまな態度でジェニーを品定めして、目に不承知の色を浮かべた。ジェニーにはわかっていた。自分の髪が今年の流行より長すぎるということも、長すぎる裾広がりのコートが二、三年前なら通用したかもしれないが、今では救いようのないほど流行遅れであるということも。それから、自分の顔が風やけで、ほてって赤らんでいるということも。彼女は毅然たるプライドをもって看護婦を見返した。看護婦のほうが先に視線をそらした。
「名前と電話番号を書いていってくだされば」と看護婦はいいだした。「もっと早くなるよう、やってみましょう。今日だなんて問題外です。もう、診療時間を過ぎていますから」
 ジェニーはふんと鼻をならした。「私は、いま、先生にお会いするつもりです」彼女はおだやかに言った。
 インターホンが鳴った。看護婦がそれに応えてボタンを押したとき、ジェニーは矢のようにその前を走りぬけて、事務机のむこうにある戸口に突進した。「リンドクウィスト先生」ジェニーは、デスクのうしろにすわってあっけにとられている男にむかって叫んだ。
「十分だけお時間をとってください! 私、先生に診ていただきたいんです!」
 彼女が行動を起こすと同時に、看護婦は立ちあがってあとを追ってきた。そして、今や険悪な態度で近づきつつあった。医師は腰をあげ、看護婦に止まるよう合図すると、デスクをまわって歩みでた。ジェニーは駈けよって彼の腕にしがみついた。
「すみません、先生。止めようとしたんですけど」と看護婦は言った。
 ジェニーは彼にすがりついた。「私は最初に電話したんです。ほんとにしました。でも、あの人は私の順番を三週間も先にしたんです。そんなに待てません。お願いですから……」
「お嬢さん。私は一時間後に約束があるので……」医師は彼女の手をほどこうとしはじめた。「もし、きみが明朝十一時にここへ来られるなら……」
 ジェニーは看護婦のほうをちらっと見ると、爪先立って耳うちした。「先生、私、羽があるんです!」
 医師は動きをとめた。呼吸すらも、目が彼女の顔をうかがうほんの少しの間、止まっているかのようだった。何をしているか悟られないうちに、彼は手を彼女の背中にあてて上下に走らせた。その出来事はすべて、看護婦が部屋を横切ってきてジェニーの腕をつかむまでの、わずかのあいだに起こったことだった。
「いいんだ、いいんだ」と医師はあわてて言った。押し出すように看護婦を診察室から出すと、ドアをしめた。彼はジェニーのほうに向きなおると、手を伸ばしてコートを取ろうとした。だが、彼女はさっとあとずさった。
「看護婦さんを帰してください」と彼女は言った。デスクのほうに退いて、もし彼が要求に応じなかったら、別の戸口から廊下に飛びだす構えをみせた。
 リンドクウィスト医師は一瞬ためらったが、注意深くデスクの反対側に歩いていった。そのあいだ片時も、彼女から目を離さなかった。インターホンのボタンを押すと、それに向かって喋った。「ローズさん、今日はもういいから、帰りなさい」答を待たず、デスクに身をもたせると、彼は言った。「さあ、コートを脱いでください」
 ジェニーがコートを取ると、彼は思わず失望のため息をもらした。彼女はその下にコットンの服を着ていた。前身頃はぴったりしているが、後ろ身頃はたっぷりひだを取ってある。ジェニーは間近で彼の表情をうかがった。緊張しているようだった。まるで恐ろしい戦いをしなければいけない者の顔だ。彼女はベルトのバックルをまさぐり、そうしながら視線を下げた。「私――私いつも、着る物で苦労するんです」彼女はぼそぼそ言った。「自分で作らなけりゃならないし、それから、下着をみつけるのがたいへんで……」
 もどかしそうに彼は鼻をならすと、彼女に歩み寄りはじめた。彼女はあとずさりした。「私は医者ですよ」と彼はおちつきはらって言い、歩みをとめた。
 ゆっくりとジェニーはベルトを取り、服のボタンをはずし、ようやく足のほうから全部脱いだ。幅の広いゴムのバンドが、わきのしたのところに一本と腰のところに一本、巻いてあった。彼女はそれをはずした。それから翼をひろげた。
「おおっ!」医師は短いあえぎ声をあげ、黙りこんだ。彼の顔には畏怖と懐疑の色が浮かんだが、それはすぐ歓喜にかわった。彼はゆっくりと彼女のまわりを歩いてまわった。そのあいだに彼女は、まず片方の翼を大きく広げ、ついでもう片方の翼もそうした。それは長さが六フィートあり、いましめを解いたあとはいつも痛みと疲れをおぼえた。翼のよじれを伸ばし、それをおちつかせると、両の翼は、彼女の背中から張り出して静かに揺れていた。
「おお」医師はもう一度、驚嘆の声をあげた。「信じられなかった。コートの上からさわってみても、まだ信じられなかった。美しい! 美しい! 金色だ、カナリア色だ、きみの髪と同じ色だ。とても柔らかい……」彼の手を感じたとき、彼女ははげしく身震いした。
「けがをしてるのかい?」医師はあわてて、心配そうにたずねた。「翼をいためてるのかい?」
 彼女はかぶりを振った。彼の注視をあびて、自分が赤くなるのがわかった。「そうじゃありません」と、どぎまぎしながら言った。
「そう」と彼は言った。それから「おお! そうか、シーツだ。ちょっと待ってくれ……」
 彼女はとりすましてそれを受けとると、翼の下を通して、前で重ね合わせた。「ピンありません?」と彼女はたずねた。彼はそれを渡した。
「さあ、すわりなさい」彼は、デスクのそばに背のまっすぐな椅子を置きながら言った。ジェニーは急いで目をあげたが、彼はまた背後にまわって翼を見ていた。ためらいがちに彼は手を伸ばして、彼女を見た。「いいかな?」彼女はうなずくと、彼の手の衝撃にそなえて身をこわばらせた。
「名前は?」彼はだしぬけにきいた。「どうやって秘密にしてきたんだね? だれが私のところによこしたんだい?」彼は自分の顔をなでると、別の椅子を彼女の向かいに引き寄

せた。そして椅子にまたがると、背もたれの上で腕を組んで、その上にあごをのせた。
 ジェニーは、シーツにくるまり、彼を目の前に見ていると、さきほどより気分がおちついた。彼女は答えるまえに医師をよく観察した。彼は思っていたより若かった。からだつきはがっしりして、ひきしまっている。物腰はいくぶんぎこちないが、たぶんおさえた興奮のためだろう。しかし、興奮していても、彼女がちゃんとすわれるのは背のまっすぐな椅子だけだと気づいていた。彼女は以前にも、翼をひろげたとき人が興奮するのを見たことがあったが、それはたいてい貪欲さをおしかくしたものだった。さもなければ恐怖を。彼の場合はどちらのそぶりもなかった。彼女は言った。「先生、ほんとにお時間を取らせたくありません。約束があるっておっしゃったでしょう」
「ああ、あんな約束、糞くらえだ!」もどかしそうに彼は受話器を引き寄せるとダイヤルをまわした。その間、片時も彼女から目を離さなかった。彼は有無を言わせぬ口調できびきび喋ると、接続を切って受話器を置いた。「約束のほうはこれでいい」と彼は言った。
「でも、ほんとに長くはかかりません」ジェニーはまた喋り出した。「ちょっとアドバイスがいただきたいだけなんです。私、結婚をします……するつもりなんです……」
 彼は急に立ちあがり、椅子をひっくりかえしかかって、あわてておさえた。「いや、とんでもない!」彼は叫んだ。「ドアに鍵をかけ、窓に鉄格子をはめて……」彼女は、気分が悪くなるほどの恐怖がわきおこるのを感じ、それが顔に表われたのがわかった。彼はまた腰をおろすと、おちついて言った。「すまない。弁解のしようもない。だれかがきみにそうしたんだね」
 彼女はうなずいた。
「きみをなんて呼んだらいい?」
「ジェニー。ジェニー・アルトン」
「いいだろう、ジェニー。きみをひきとめようとしたりしないって約束するよ。で、よかったら、とどまって少し話をきかせてくれないか。そのあとで、この訪問の理由にとりかかろう」
「お話しします」彼女は静かに言うと、もう一度翼をおちつけた。それまで気づいていなかったのだが、両翼は、今にも宙に舞い上がって飛び去らんばかりに、広げられて鳥のように油断なくつりあいを保っていた。「私はいままでパプ以外のだれにも、その……そのことについて話せなかったんです」
「そうか」と彼はつぶやいた。「口をはさまないから、どこからでも始めなさい」
「学校にあがるまで、私は自分が人と違うということを全然知りませんでした」彼女はほんの少しためらってから、そう言った。は、私が二つのとき、パプと私のふたりを置いて出ていきました。母のことはまったく覚えていません。パプっていうのは私の祖父なんです。パプは、私が生まれたとき、母とお医者さんにどうしても私の……私を手術させませんでした。そして、母が出ていってからは、パプが私の面倒をみてくれました。パプはよく地面に立って私を見守りながら、大声でこう叫んだものです。『飛べ、ジェニー! 飛べ、それ! 飛べ!』って。パプは私の翼をほんとうに誇りに思っていました。毎晩、私におやすみのキスをして、『おやすみ、翼のジェニーちゃん』て言うんです」彼女は恥ずかしそうに医師のほうを見た。彼の目は興奮と理解で燃え輝いていた。「私、とてもしあわせでした」と彼女が言うと、彼はうなずいた。「やがて、学校にあがる歳になりました」彼女は二日目か三日目の遊び時間のことをはっきり覚えていた。彼女は続けた。「なぜみんながいつまでもつまらない遊びばかりしていて、飛ばないのかわかりませんでした。私は、もうなわとびなんてやっていられないって思いました。それで、服を脱いで飛びはじめたんです」彼女は医師のほうを一瞥して、彼の唇がニッとゆがむのを見てとった。彼女はうなずいた。「ほんとに大騒ぎになりました」彼女は思い出し笑いをした。
「きみはどうしたんだね」医師は真顔でたずねた。
「家に飛んで帰りました、もちろん」彼女はあっさりと答えた。「私たちはその日のうちに引っ越しました」
 彼と目が会って、ふたりして笑った。「私、その出来事をおかしいって思わないようにしてるんです」やがて彼女はそう言った。「おかしかったはずはないんです。でも、みんなの顔つきや、金切り声をあげる様子ったら……」
「でも、そのときおかしいって思ったのかい? びくびくしたり、さびしかったりしたことは?」
「先生にはわかりません」彼女はそう言うと、両翼をぴんとひろげてそれを見た。「飛んでいたら、ほかにだれもいりません。それに、私にはパプがいました。私たちはもちろん、たくさん旅をしましたけど、パプは気にしませんでしたし、私だってそうです。私があまり寒いおもいをしないように、いつも南部で暮らしました。私は一日で何百マイルも旅することができました。そして上昇したり、宙返りしたり、急降下したり、でなかったら、貿易風にのってただ滑空していたりできたんです。私にはほかの女の子のことはわかりませんでしたし、あの子たちには私のことはわかりませんでした。あの子たちがすることで、私にはできないことがたくさんありました。パジャマパーティ、水泳、服の取り替えっこ。でも、そんなことはどうでもよかったんです。私は飛べたんですから!」
「しかし、そのうちとうとう人に知られてしまった。そうだろう?」と彼は優しく促した。
 彼女は鋭いまなざしを彼に向けた。どうしてそれがわかったんだろうかと。
「さけられないことだよ。きみに腕をまわした男の子が驚く目にあうことになるのはね」と彼は言った。「それから、男の子がきみに腕をまわしたがることもね」
「私は男の子について知りました」と彼女は悲しそうに認めた。
「そのとき私は十二歳で、すぐ十三でした。はじめて少年少女パーティに行きました」ため息をつきながらそのパーティのことを思いかえした。「だれかがあかりを消したとき、その男の子ジョニー・ローランドがいたんです。彼のことは決して忘れません。彼は十四でした。私のとなりに腰をおろすと、まもなく彼の両手が探りはじめたんです。私びっくりしました。でも……」彼女はちょっと間を置いた。顔がほてるのがわかった。「とにかく」とあわてて続けた。「まわした彼の手が羽にとどくと、ぴたっと止まりました。私が片方の羽をぴくっと動かすと、彼は叫び声をあげました。その声でポーチからその家の子の両親がやって来てしまいました。そのあとあかりはつけっぱなしにされ、私たちは卓球をやってました。ときどき彼のほうを見ると、いつも彼の目は見ひらかれて、おびえていました」ジェニーは口をつぐみ、床を見つめた。

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