山頂の民
THE PEOPLE OF THE SUMMIT
ビョルン・ニューベリイ
さとう@Babelkund訳
「馬を休ませる必要がある。あのコズガルの悪鬼どもがまだ追ってきているかみてみよう」彼は長い垂れ布が顔の前にかかったのをはねのけてから、そう言い、地面に唾を吐いた。起伏する馬の脇腹は汗に濡れ、その口は泡にまみれていて、休息が必要なことを物語っていた。コナンのくすんだ碧眼は、日焼けした顔の中で光っている。頂部のとがった兜に巻いた赤いターバン、赤の胴衣、黒の腰帯、もとは白かった乗馬用ズボン、それに黒い長靴といういでたちだ。左のゆったりした袖には、ツラン国境騎馬隊の軍曹の位を示す金色の偃月刀が刺繍されている。
彼の戦友は長身痩躯で黒い目のツラン人で、階級章を除いてキンメリア人と同じ制服を着ていた。偃月刀と長槍に加えて、彼はW字型に反った大弓と矢を一杯に詰めた革の矢筒を携えていた。
「あの国王の特使の糞野郎め」とキンメリア人は毒づいた。「おれはコズガル族のことやあいつらの油断ならない思惑について、やつに話したんだぞ! だが、やつは耳をかそうとしなかった、あの石頭野郎が! 頭のなかは通商条約と新しい隊商路のことで一杯だったのさ。それで今や、やつの頭は、族長の小屋のなかで煤と煙にまみれて、おれたち仲間の七人の兵士の頭といっしょにぶらさがっているというわけだ。あの岩山の村で交渉をすることに賛同した副官も副官だ!」
「ああ、コナン。だが、あいつにどうすることができた。特使は全権を握っていた。おれたちの仕事はやつを守り、やつに従うことだけ。ほかに何ができた。やつの望むことに反対したら、副官に与えられたのは折れた刀と降格だ。司令官の気性は知っているだろう」
「頭を八個失うよりは、降格されるほうがましさ! 襲撃されたときに包囲を破ることができて、おれたちは運がよかった。何だ、あれは――」かれは片手を上げ、眉をひそめた。「何の音だ」
彼は馬の背に座り、峡谷や岩の割れ目を見渡して、いま聞いたかすかな音の源を示すものがないか探した。相棒は黙って大弓をはずし、矢をつがえた。コナンの手は長い偃月刀の柄を握った。
彼は勢いをつけて鞍から飛び降りると、突進する雄牛のように近くの岩壁に向かって駆けた。ほんの一瞬の間に、二本足の生き物が狭い峡谷を横切り、猿のような身軽さで絶壁をよじ登っていったのだ。
コナンは岩壁にたどり着くと、手がかり足がかりを見つけて、山岳民のようななめらかな動きで登っていった。崖っ縁で体を引き上げると、素早く体をわきに投げ出した。間一髪でいま彼の頭のあったところに重い棍棒が振り下ろされた。つぎの一撃がくる前に、彼は襲撃者の両腕をつかんだ。そして目を見ひらいた。
それは若い娘だった。薄汚れてひどい身なりだったが、まぎれもなく若い娘だった。その肢体には、王宮彫刻師の彫像たちも羨望することだろう。顔は垢にまみれていても美しかった。彼女はいま、自分を捕らえた巨漢の岩のように堅い手にあらがって細い腕を激しくねじりながら、無力な怒りですすり泣いていた。
コナンの声は疑いを含んで荒々しかった。「おまえは斥候だな! どこの部族だ?」
飼いならされることのない反抗の炎を目に燃えたたせながら、彼女は答えを吐き出した。
「わたしはシャーニャ。コズガル族の長(おさ)にして山岳地帯の支配者、シャフ・カラズの娘! わたしに手をかけてごらん。父はおまえを槍で串刺しにして、評議の家の炉火で丸焼きにするよ!」
「もっともらしい話だ!」キンメリア人はあざけるように言った。「長の娘が武装したお供も連れずに、こんなところにひとりで?」
「シャーニャに乱暴を働く者などいはしない。シャフ・カラズの娘シャーニャが馬を駆って野生ヤギ狩りに出かけるとき、テギル族やグーファガ族は小屋のなかで縮こまっているさ。ツランの犬め! わたしを放しなさい!」
彼女は腹立たしげに身をよじったが、コナンは万力のような両腕で細い体を抱きしめた。
「そうあわてるな、別嬪さん! おれたちがサマラに無事もどるのに、おまえは格好の人質になるだろうぜ。道中ずっとおまえは鞍の上でおれの前に座っているんだ。じっとしていたほうが身のためだ。さもないと縛りあげられさるぐつわをかまされて旅をすることになるからな。好きなほうを選べ」彼は娘の激情を冷たく無視して、がっしりした肩をすくめた。
「犬畜生! いまのところはおまえの言うようにしてやろう。だけど、この先コズガリ族の手に落ちないよう気をつけるんだね!」
「おれたちは二時間ほど前にやつらに包囲されたが、やつらの弓兵は渓谷の壁まで矢を届かせることができなかった。相棒のジャマルの矢は、やつらのところまで届いて十人あまり打ち負かしたぜ。おしゃべりはもうたくさんだ! 移動する、急いでな。いまから先、そのかわいい口を閉じておけ。さるぐつわをかませるのはたやすいことだ」
二頭の馬が岩や巨石のあいだの道を用心深くたどりはじめたとき、娘はやり場のない怒りで口をゆがめていた。
「どっちの道を行くつもりなんだ、コナン」ジャマルの声は不安気だった。
「もどることはできない。待ち伏せの真っただ中では、この人質の駆け引きはあまり当てにならん。おれたちはまっすぐ南に向かって、ガルマの道を目指す。それからバンバール峠を通って霧降り山脈の土地を横切る。そうすれば二日以内にサマラにたどり着けるだろう」
娘がうしろに首をひねって彼を見すえた。その顔は突然の恐怖で真っ青になっていた。
「なんて馬鹿なの! 霧降り山脈を越えようとするなんて、軽率で無知にもほどがある。あそこは<山頂の民>がいるところなのよ。彼らの土地に入って、もどってきた旅人はいない。むかしツランのアンガルゼブ王の治世に、王が古代ツラン人の埋葬地を奪還しようとすると、あいつらが霧の中から現れて王の全軍を魔法と怪物で打ち破ったの。あそこは恐怖と死の土地よ! 近づいてはだめ!」
コナンの答えは冷ややかだった。「だれも見たことのない悪鬼や怪物についての与太話はどこにでもある。これがいちばん安全で最短の道だ。もしおれたちが回り道をしたら、道草を食った報いで営倉に一週間ぶちこまれるだろうぜ」彼は馬を先に駆り立てた。石を打つひづめの音を響かせながら、一行は絶壁のあいだを縫うように進んだ。
「まるで馬乳みたいに濃いぜ!」
コナンの相棒のツラン人が驚きの声をあげた。霧はじっとりとしていて見通せないほど濃く垂れこめており、二三ヤード先までしか見えなかった。二頭の馬はゆっくりと歩いた。横に並んで、ときどき触れあうほどに近づき、前をまさぐるように注意深く歩を進めていった。乳色の霧の濃さは一様ではなく、真っ白いとばりは波打ち渦巻き、ときおり峠道の荒涼たる岩壁がちらりと見えた。