シャーニャは見慣れぬ部屋の中で目を覚ました。彼女は粗織りの黒布をかぶせた寝椅子に横たわっていた。足かせで縛られてはいなかったが、衣服を奪われていた。彼女はあたりを見回そうと寝台の上でしなやかな体をひねって、自分が目にしたものに身をすくませた。
 奇妙な彫刻をした木製の肘掛け椅子に男がひとり座っていた。男は彼女がいままでに見た誰とも違っていた。顔は死人のように白く、奇妙にこわばっていた。その目は完全に黒く、虹彩のまわりに白目がなかった。粗織りの黒布で仕立てたカフタンをまとっており、両手は幅広の袖の中に隠されている。頭部は禿げていた。男は歯の間から吐き出すような声でささやいた。
「美しい女が最後にシャンガラの住まいを訪れて来てから多くの歳月が流れた。二百年間、<山頂の民>の種族に新しい血が注ぎ込まれることはなかった。おまえは、わしとわしの息子にとってふさわしい相手となることだろう」
 半野生の娘は突然、荒々しい怒りを爆発させた。
「百人の族長たちの血筋をひく娘が、あんたら忌まわしい種族の者と交わるなどと思っているの? おまえの家に住むくらいなら、いちばん近くの谷に身を投げるわ! わたしを解放しなさい! さもないと、すぐにここの壁がコズガル族の槍のとどろきで震えることになるよ!」
 あざけるような笑みが、こわばった顔の青白い唇をふたつに分けた。
「なんと気の強いおてんば娘よ! バンバールの霧を通って槍が届くことはない。この山を横切って生き延びるものはいない。おまえの運命は決まっているのだ。頭を冷やせ。その強情さをあくまで貫くなら、おまえを待っているのは崖っ縁から飛び降りるような楽な結末ではない。その時はおまえの魂と体は、この土地の最古の住人の活力を増すのに役立つことになる。かの者は忘れられた呪文に縛られて、いまも<山頂の民>の奴隷の身となっているのだ。ツラン国王がかつてわれらの土地を征服しようとしたとき、打ち破るのに力を貸したのもかの者だ。当時、われらは力があり、自ら戦うこともできた。いま、われらはほとんど残っていない。何百年もの間にその数は次第に減り、この塔で崖猿に守られている十名ばかりになってしまった。だが今でも、われらはいかなる敵も恐れはしない。かの者はまだ生きており、危機が迫ったときはいつでも現れることができる。おまえはかの者の顔貌を間近に見ることになろう。さあ、運命を選べ!」
 彼は立ち上がり、白い鉤爪のような両の手からカフタンのひだを振り払った。白い顔、禿頭、黒い目の男がふたり入ってきて、頭を下げると、壁についたふたつの巨大な石の把手に取り付いた。両開きの扉が、左右一緒のなめらかな動きで後ろに開きはじめた。奥の部屋は白い霧に満たされていた。霧はこちらの部屋に流れ込みはじめ、薄れて、中にいる巨大な不動の存在のおぼろげな輪郭を見せた。霧がさらに薄れ、中にいるものがはっきり見えたとき、娘は悲鳴をあげ、気を失った。

 コナンは長く待つことに我慢できず苛立っていた。不気味な塔の中や周りに人影がちらりと現れることもなかった。もし麝香のような猿の悪臭をかいでいなければ、その塔が廃墟だと信じたことだろう。彼の手はむずむずして、偃月刀の柄と弓の弧を交互になでていた。
 人影が塔の上に現れた。細部を見分けるにはあまりにも距離が遠すぎたが、はためく長衣と細身の輪郭は、それが猿でないという事実を物語っていた。コナンの口に不敵な笑いが浮かんだ。
 彼はなめらかな動きで弓を引きしぼり、矢を放った。塔の上の人影は両腕を振り上げ、ぬいぐるみ人形のようにぐにゃりと倒れ、狭間付き城壁を越えて底知れぬ深みへと落ちていった。コナンは次の矢をつがえて待った。
 今度は長く待つ必要はなかった。石の城門が開け放たれ、猿の列が走り出ると、崖道のほうへぶざまに歩を進めてきた。コナンは次々と矢を放った。彼の弓の狙いは正確だった。容赦ない矢の雨が一匹また一匹と彼らを谷に落としていったが、それでも彼らは分別のない愚かさと憤怒に駆られて向かってきた。
 コナンは最後の矢を放った。弓を捨てると、剣を手に、崖道にいる残り二匹の猿と対決するために突進した。一匹目が繰り出した不器用な一撃を、頭を下げてかわした彼は、剣が肉と骨を切り裂く軋むような手応えとともに、敵の肩と腕を斬り落とした。残る猿は、もっと素早いことを身をもって示した。コナンは間一髪で血染めの剣を無毛の体の脇腹からもぎとり、彼の頭を狙った強打をかろうじてかわした。彼はその影響でよろめき、崖道の上で平衡を失いかけた。猿の鈍い頭はその形勢を利用して、疲れの見えないひっきりなしの打撃をキンメリア人の受け太刀に降り注いだ。体勢を立て直したコナンは、素早い牽制をかけてから、目にもとまらない速さで、腹を切り裂く低い突きを見舞った。敵はうめきながら崖道にくずおれ、痙攣する肉の山と化した。
 コナンは勝利に酔うようなことで時間を無駄にしなかった。野生ヤギのような確かな足取りで駆け抜け、開いた城門にたどり着いた。頭のそばで何かがシュッと音を立てた。彼は中に入ると同時にわきに跳びのき、薄暗がりに潜むおぼろげな人影に、偃月刀の鋭い切っ先でまっすぐな突きを入れて応酬した。押し殺した苦しげな悲鳴が、落ちた武器の立てる音に続いて聞こえた。彼はかがみこんで死体を見た。奇妙にこわばった真っ白い顔をした長身痩躯の男が、今は死んでいる黒い目で彼を見つめていた。その顔は半透明の物質でできた妙な仮面でおおわれていた。キンメリア人はそれをはがした。そんな仮面も、その材料である物質も、見たことがなかった。それを腰帯の内側に押し込むと、彼は奥へ進んだ。
 その先で出くわした環状回廊を、彼は前にも増して用心してゆっくり回っていった。石壁は湿気を帯び、空気はひんやりしていた。回廊はずっと続き、それから大きな部屋へとつながった。妙な一団が彼の前にいた。
 真っ白い顔の者たちが十人、彼のほうを向いていた。ふたりは女で、よれよれの白髪が白墨のような色の顔を縁取っている。みな絵に描いた動かない死体のようで、ひとりひとりが波状の刃の長い短剣を持っていた。彼らの黒い目には恐れと憎しみがないまぜになった炎が燃えていた。部屋の中央の長椅子に、若い娘の裸体が横たわっていた。彼はそれがシャーニャだと分かった。彼女は目をとじてそこに横たわっていたが、その豊満な胸は規則正しい息づかいに合わせて上下していた。薬を飲まされているか気を失っているのだろうとコナンは判断した。彼は剣をさらにしっかり握ると、不気味な一団に対峙した。
 不吉な集団の中央にいる長身禿頭の男が話しかけてきた。彼の声はささやき声だったが、鈴の音のように明瞭にキンメリア人の耳に伝わってきた。
「何の用でここに来た。おまえはツラン人ではないな。山岳民でもない。だが、おまえはヒルカニア人の身なりをしている」
「おれはコナン、キンメリア人だ。この娘はおれの人質だ。娘を連れ帰り、旅を続けるためにやって来た」
「キンメリア? 聞いたことのない国だ。われらをかついでおるのか」
「凍りついた北の土地に行ってみれば、かつ

いでいるのでないことがわかるだろう。おれたちは戦う民だ。おれたちの部族の半分も手近にいれば、ツランの支配者になっていることだろうぜ!」
「嘘つきめ! 北に行っても、世界の縁と永遠の夜のほか何もないわ! この娘はわれらのもの。われらの種族にまた新しい活力を与えてくれる。その子宮から強い男たちをわれらに生んでくれる。おまえは、あつかましくも<山頂の民>の秘密の場所に侵入してきた。その体を<いにしえの者>の胃袋にくれてやろう!」
 キンメリア人は威嚇の動きをとったが、男は床を強く踏んでパチンという音を響かせた。白い花が開くように、濃い蒸気が床の中央から噴き出した。黒い目の一団がそれぞれ左手を顔に素早くあてるしぐさをした。急速に濃くなっていく蒸気が視界のなにもかも覆い隠す前に、彼らが、先ほどの攻撃者がつけていたような妙な半透明の仮面をかぶっているのを、コナンは見た。
 濃霧はコナンがこの山岳地帯で出くわしたどれよりも濃かったが、キンメリア人は素早く腰帯にはさんだ仮面をつかむと、どうにかそれをかぶった。これは思っていたより簡単だった――仮面の物質は額と両頬の皮膚にしっかりくっついたようだったが、両眼には貼り付かなかった。彼は驚愕した。はっきりと見ることができるのだ。まるで蒸気が目の前から消えてしまったかのように。彼に敵対する者たちは霧の壁のむこうで、音を立てずに素早く動いていた――そのうちふたりがすぐ間近にいた。素早い動きで、彼の剣はこの広い部屋の湿気を帯びた空気を切り裂いた。
 それは殺戮だった。復讐に燃えたキンメリア人の激情を前にして、かつては強い力をもっていたこの種族の生き残りたちに勝ち目はなかった。波状の刃の短剣は、きらめく偃月刀の渦巻く光跡をむなしくかすめた。彼の剣がなめつくすたび、長衣をまとった姿が息絶えて床に沈んだ。彼の粗野な騎士道精神は、女たちを殺さずにおく気にさせていたが、そのふたりがひどく逆上して飛びかかってきたので彼は受けて立ち、ついに十人の息絶えた体と捕虜の娘がいる部屋に彼ひとりが残った。
 みな息絶えていた。頭領の男の命の最後の火花が、苦しげな唇の間からかすれた言葉を吐き出させた。「野蛮な野良犬め! おまえはわれらの種族を根絶やしにしてしまった! だがおまえはそれをほくそ笑むほど生き長らえはしないぞ! <いにしえの者>がおまえの骨から肉をそぎ、髄をすするのだ! われに力を与えたまえ、おお、<いにしえの者>よ……」
 キンメリア人が魅入られたように見つめていると、痩身の男は恐ろしいうめき声をあげながら最後の力を振り絞った。やせた手が壁に取り付けられたふたつの石の把手の一方を強く引いた。両開きの扉の一方がゆっくり後ろに開きはじめた。
 奥の部屋の内部にばかでかい異形をかいま見たとき、コナンの首筋の毛が逆立った。脚のついた卵のような多足の体。醜く広がった鼻のある頭部とぽっかり開いた顎部をもつ姿は、蜘蛛ではない。その巨大な異形は、まるで触れることができそうな邪悪な力を発散していた。人類が地球を歩くより前の暗黒の太古まで起源を遡る力を。鉤爪のある無毛の脚が出口を広げようと扉にかかったとき、彼は飛び出して、シャーニャの体を両腕ですくい上げた。彼が城門めざして回廊を駆け抜けたとき、背後にぜいぜいとあえぐような音が聞こえた。
 彼は猛速で平衡を崩しながら、娘を両腕にかかえて崖道を渡り終えようとして、後ろを振り返った。巨大な怪物は多くの力強い脚を駆使して驀進してくる。すでに崖道の半ば近くまで達していた。息を切らしながら、彼はふたつの墓碑塚の間に飛び込んだ。娘を地面におろすと、彼は攻撃するために向き直った。
 彼は怪物の最初の突進を出迎え、つかみかかってきた脚の一本に猛烈な一撃を加えた。剣が怪物の強靱な外皮に当たって粉々に折れたとき、彼の腕は衝撃で肩甲骨まで震えた。その一撃は相手の足元を一時的にはぐらつかせたが、怪物は唾液を吐き、ぜいぜい音をたてながら、また体を揺するようにして速い足取りでかかってきた。絶望的になって、コナンは何か武器になるものはないかあたりに目を走らせた。一番近くの石の塚に目が止まった。一秒の何分の一で彼は丸い大石のひとつを頭上に持ち上げると、蛮族の筋肉が出せる力のすべてを使って、間近に迫った恐ろしい化け物に向かって投げつけた。
 昔のツランの魔術師たちが古代の族長の墓碑にかけた呪文は、長い歳月を(けみ)するうちに忘れ去られてしまった。しかしその呪文は、人類の揺籃期から山岳地帯を徘徊しているような怪物に対して、魔力を失ってはいなかった。体の一部が麻痺した怪物は、血も凍るような甲高い叫びをあげながら、重い石の下敷きになって押しつぶされた脚を引っ張った。コナンは別の巨石に手をかけて、投げつけ、またもうひとつを押して、のたうち回る怪物に向けてころがし、さらにもうひとつを投げつけた。そして、土台を崩された石のピラミッドは崩壊してすさまじい勢いの雪崩となり、多数の足をもつ恐怖の存在を引き裂いて巻き添えにし、土煙と破片をまき散らしながら斜面を奈落の底へと落ちていった。

 コナンは汗に濡れた眉を震える手でぬった。その震えは力を出し尽くしたためばかりではなかった。彼は背後に身じろぎする音を聞き、ふりかえった。娘の目が開き、彼女は当惑げに見回した。
「ここはどこなの。あの邪悪な男はどこにいったの」彼女は身震いした。「あいつはわたしを餌食にしようとした。あの――」
 コナンの声が乱暴に彼女の言葉をさえぎった。
「あのミイラ化した盗賊どもの巣窟は、おれが片づけてやった。やつらの邪悪な化け物はもと這い出してきたところに、おれが送りかえした。その柔肌を救うのにおれが間に合って、おまえは運がよかったな」
 彼女は急に傲慢な怒りを爆発させた。
「何とかしてあいつらを出し抜けたわよ! 父がわたしを助けてくれたわ!」
「おまえの親父はここにたどり着けなかっただろう。あの怪物は彼の戦士たちを挽肉みたいに叩きつぶしたことだろう。あの育ち過ぎのゴキブリを殺す武器が見つかって、おれは運がよかった。さて、おれたちは急いで、ここから移動しなければ。おれはサマラにたどり着かなければならないから、まだおまえを人質に必要だ」
 娘の目つきが気分の急な変化で和らいだ。彼女がキンメリア人に向けて裸の肩を挑発的にすくめたとき、瞼は伏し目がちになり、声に冷やかすような調子が加わった。
「あんたを国境地帯までずっと道連れにしてやろう。あんたはわたしの命を救ってくれたから、その褒美として、コズガル族の土地の安全通行が許されるだろう。北国の野蛮人のやり方をいろいろおぼえるのもおもしろいかもしれないな」彼女の声には誘うような調子があった。彼女は、自分が裸なのに気づいていないそぶりで、みごとな肢体を伸ばした。
 コナンは品定めするかのように娘を見た。
「クロムの骨にかけて! たぶん道中二日ぐらい道草を食うのは、営倉一週間の価値があるだろうぜ!」

――おわり――

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