過去に向かって生きる  さとう@Babelkund

 「アリスとジェニーと白のクイーンと」で、『鏡の国のアリス』第五章の白のクイーンの台詞「それは過去に向かって生きることの影響なのよ」That's the effect of living backwardsについて考察した。これについてもう少しくわしく書いてみる。
 C・S・ルイスの幻想小説『天国と地獄の離婚』(柳生直行訳、みくに書店、一九六六)The Great Divoce―A Dream (1946)の巻頭に以下のような著者のはしがきがある。
 ここで挙げている物語は、のちの研究者の調査でチャールズ・F・ホールの短編「過去に向かって生きた男」The Man Who Lived Backwards(未訳)であることが分っている。C・S・ルイスが「アメリカのいわゆるSF雑誌」といっているのは勘違いで、英国最初の大人向けSF雑誌Tales of Wonderである。マイク・アシュリー著『SF雑誌の歴史 パルプマガジンの饗宴』(牧眞司訳、東京創元社)によれば、この雑誌は一九三七年創刊で、一九四二年までに十六号発行されており、第五号(一九三八年冬季号)ではアーサー・C・クラークが「人類の未来帝国」という記事でプロ・デビューしている。その第三号(一九三八年夏季号、画像参照)に載ったのが前記短編である。


 この作品は二〇〇八年にダグラス・A・アンダースン編のアンソロジーTales Before Narnia: The Roots of Modern Fantasy and Science Fictionに収載されている。作者ホールの素性は不明で、短編三作が残されているのみである。二〇一七年にはこの三編をまとめた小冊子The Man Who Lived Backwards and Other Stories(Noden Books)が出版されている。
 さて、この短編で主人公がどのようにliving backwardsするかを見てみよう。

 主人公ロストフはグラマースクールの物理・化学の教師で、近隣に友人ふたりと共同所有の研究室がある。彼が一月二〇日の火曜日の午後に授業をしていると、三十二名の生徒の前で彼の姿が消え失せる。その直後に、疲弊し傷を負った全裸の彼が教室から一マイル半はなれた郊外に出現する。病院に運ばれた彼の話はこうだった。
 火曜日、何の問題もなく授業を終え、翌日の水曜日も平穏な一日で、木曜日の午後六時半には研究室に出向いた。すでにふたりの友人は来ていて高圧放電の実験を行っていた。そこでロストフは大放電に巻き込まれて気絶する。気づくと彼は真っ裸だった。友人たちは実験に没頭しているが、もうひとり、さきほどはいなかった男がいた。それは彼自身だった。その男はうしろ向きに歩いて彼の実験室に戻っていった――まるでフィルムを逆回しで映すように。彼に触れてみると花崗岩のように硬かった。大声を出しても彼に気づく気配はない。壁にかかった鏡を見ると自分の姿は写っていなかった。街に出た彼は空腹を感じて屋台のコーヒースタンドに行ってみる。するとひとりの労働者が後ろ向きにスタンドに近づいてきて空のカップを取り上げ、口にあてて離すと湯気の立ったコーヒーで満たされる。さらに口からサンドイッチを噛みながら吐き出し、数分で完全なかたちにして皿の上に置く。このように逆回りする街をロストフは時の流れに逆らってさまよう。水曜日の昼前に道路が濡れているのに気づいた彼は、あわてて屋根のある場所に駆け込む。やがて雨が地面から空に向かって降り出す。もしこの雨に当たっていたら、彼の体はずたずたに切り裂かれていただろう。火曜日の夜から夕方までは安全そうな家のポーチで睡眠をとり、明るくなってから屋外に出ると、不思議な現象が起きた。逆向きに飛んでいた鳥の動きが緩慢になり、やがて空中で止まり、正常に飛ぶようになる。周りの景色も正常に動き、近くで働いていた植木職人が彼に気づく。職人はロストフが空中から出現したと証言した。

 これがロストフの物語である。実験の事故で逆の時間流に乗った彼は木曜日から火曜日へと「過去に向かって生きる」ことになり、正常な時間流に戻ったとき、同一人物がふたり同時に存在することができないので、授業中の彼は消えて、戻った彼が新しい火曜日を生きることになる。
 白のクイーンがliving backwardsと言っているのは、このように「過去に向かって生きる」ことであり、「後ろ向きに生きる」ことではない。その結果、アリスから見ると、クイーンが指にピンを刺して、指から血を流して叫び、絆創膏と包帯を巻く出来事が逆の順序で起きているように見えるのである。

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