鏡の国から来た少女
一八六七年一月二四日(木)
リチャード・ドイルを訪問。次の『アリス』の挿し絵を描いてもらえるか相談。引き受けてもらえそうだったが、今度のクリスマスまでにそれを仕上げられるかは定かでなかった。さしあたってこの件は未定ということにしておいた。その後、チャールズ・バベッジ氏を訪問。彼が開発した計算機で譲ってもらえるものがないか尋ねた。ないとのことだった。彼はひじょうに親切に応対してくれた。一時間足らずだったが、工房などを見せてもらってとても楽しい時間を過ごした。それからケンジントンに行き、マクドナルド家のリリーとグレースを連れて、ヘイマーケットの劇場に『リビング・ミニチュア』を観にいった。
(チャールズ・L・ドッドソンの日記より)
これで三回目だ。過去の二回は部屋の住人が不在だったが、今回は部屋の住人の姿があった。椅子に座って本を読んでいた住人は、アリスのほうを見て目を丸くした。それはそうだろう。突然、自分の部屋の中に鏡のように光る平面が出現して、そこから少女が出てきたのだから。
「こんにちは。驚かせてごめんなさい。チャールズ・ドジソンさんですね」とアリスは尋ねた。
「そ、そうだけど。でも、ドジソンでなくドッドソンと発音してくれるかい。それで、きみは?」
「妖精よ。鏡の国からあなたに会いにきたの」アリスはいたずらっぽい目つきで答えた。
「その鏡のむこうに妖精の国があるのかい。ぼくの部屋にはそんなに大きな鏡はなかったはずだけど……。まるでサウス・ケンジントンの伯父の家にある姿見のようだ」
「鏡のように見えるけど、ほんものの鏡ではないわ。わたしの国からこの部屋に入るために設けた、一種の扉ね。あなたがルイス・キャロルのペンネームで書いた『不思議の国のアリス』に、アリスが森から細長い広間にもどるために通り抜けた木の幹の扉があったでしょう。あのようなものよ」
「なるほど。それにしても鏡の中から人が出てくるなんて、まるでマクドナルドの『ファンタステス』に出てくる鏡の中のレディの話みたいだな。ところできみの名前は?」
「わたしもアリスよ」
「歳はいくつだい、アリス」
「七歳と六か月。こんどはわたしから質問させてちょうだい。いまは西暦何年かしら?」
「一八六六年だけど。鏡の国では暦が違うのかな」
「そんなとこね。ところで、チャールズ、あなたはチャールズ・バベッジという人のことを知っている?」
「確か、政府の資金援助を受けて精度の高い計算機を開発している数学者だ。以前、新聞かなにかで読んだことがある」チャーズルが怪訝そうに答えた。
「では、まだ実際に会ったことはないのね。でも、きっとそのうち会うことになると思うわ。そして、ふたりで後世に名を残す偉業を成し遂げるの。でも、この話はこれでおしまい。なにかおもしろいお話をして!」
「そうだな、では、ふたつの時計があった。ひとつは一年に一回しか正しい時刻を指さない。もうひとつは毎日二回正しい時刻を指す。きみはどちらの時計が欲しい?」
「不正確な時計の良し悪しは、正しい時刻を指す頻度ではなくて、それ以外の時刻にどれくらい正しい時刻からはずれているかによると思うわ。それが正確度ということよ。どのみちそのふたつの時計は役に立たないわね。どちらも願い下げだわ」
「頭のいい子だ。それでは、これはどうかな。アレンとブラウンとカーという三人の理髪師がいた。営業中は三人が同時に外出することはできない。そしてアレンは体が弱いので、アレンが店を出るときは、ブラウンもいっしょについていかなければいけない。このことから、店に行けばカーがかならずいることを証明してみせよう。いいかい。まず、論証のためにカーは外出していると仮定しよう」チャールズが奇妙な論法を展開しはじめた。(注)
聞き終わるとアリスはあっさりとその論法の穴を突いた。
「おもしろかったわ。きょうはこれで帰る。また来るわね」そう言うと鏡の中にするりとすべりこみ、同時に鏡も消えてなくなった。
次にアリスがチャールズの部屋に姿を現すと、チャールズが待ちかねたかのように椅子から立ち上がって駆け寄ってきた。
「アリス! きみは未来から来たと言っていたね」
アリスは立ち止まった。そのことは今回打ち明ける予定だったのに、なぜ事前に分かってしまったのだろう。何かおかしい。
「それで、聞きたいことがあるんだ。きみの世界では写真機はどれくらい進歩しているんだい。撮影の露出時間は短縮されているのかな。色のついた写真はできているのかな。動く様を写真に記録できるようになっているのかな」
「待ってちょうだい! そのことはあとで話してあげる。それより、いつわたしが未来から来たと言ったの?」
「いつって、前回、二回目にここに来た時さ。覚えていないのかい」
アリスは納得した。時間旅行の着時点の誤差だ。
「説明するわ。わたしにとってはこれが二回目で、次に来るときは、いまより過去のチャールズに会って、未来から来たことを告白することになるの。誤差が大きすぎて、まだ目的の時代に正確に到着することができないのよ」
「時間の順序が逆だ。まるで、指から血を流してからピンで刺すみたいだな。どういうしくみで時間を旅するんだい」
「くわしいしくみはわたしも知らないの。むかしアインシュタインという人が『相対性理論』という時間と空間についての理論を確立したの。彼はそのあと、当時急速に進歩したコンピュータを駆使して『時間理論』を構築して、それが時間旅行の基本原理になっているの。わたしたちの時代にそれがやっと実用化したのだけど、まだ物質を過去に送ることまではできないの」
「では、きみはどうやって未来から送られてきたんだい」
「実は、あなたが見ているこのわたしはリアル・アリスではないの。時間を旅しているのは光と音だけ。未来のわたしの立体映像をこの部屋の空間に映写しているの。ちょうど幻灯機のようにね」
「きみが幻灯機の映像とはね。まるで本物のように見える」
「映像技術は未来ではすごく進歩しているのよ」そう言って、アリスはさきほどのチャールズの質問に答えて、自分の時代の写真や映画やテレビなどについて語った。アリスの話にチャールズは身を乗り出して聞き入った。
「ああ……。そうした技術が実現するのをこの目で見るために、あと百年生きたいものだなあ――。おや、きみの姿がちらつきはじめたけど、どうしたんだい」
「やっぱり! きょうは機械にエネルギーをじゅうぶんに貯めるだけの時間がなかったから……。いまあなたがいる時点にこの映像を固定するためだけでも、機械をフル稼働させておかなければならないの。そろそろお別れね。つぎは過去のあなたにお会いするわ」
そう言って、アリスは鏡の中に消えていった。
「こんにちは」
アリスは、椅子に深々と腰掛けているチャールズに注意深く声をかけた。これがアリスにとって三回目、チャールズにとっては二回目の出会いのはずだった。チャールズが椅子から立ち上がって近くまでくると、アリスは言った。
「チャールズ、実は打ち明けたいことがある