氏家六郎の平凡な日常

「氏家六郎のフィールド・ノート」

氏家六郎の平凡な日常 戌の頁

  犬の散歩

 氏家六郎氏は民俗学者という職業柄、仕事上ではさまざまな怪異現象に遭遇しているが、日常生活は至って平凡だ。今日も飼い犬のポチにリードをつけて夕方の散歩にでかけた。コースはいつもポチまかせで、最近のお気に入りは近くの古い店並みの商店街。灯りの消えている店の前を通りかかったとき、ポチが店の暗いガラス扉のほうを向いた。ガラスにはポチの姿が映っていた。と、鏡像のポチだけがワンと鳴いた。それから鏡像の犬はくるりと向きを変えて、ポチを誘うように店の奥に去っていった。ポチが扉に向かって突進した。扉にぶつかるのを止めようとして氏家はリードをぐっと引いたが、ポチはそのまま固いガラス扉をするっと通り抜けて、店内に飛び込んでしまった。そして、引きずられた氏家もガラスを通り抜けた。
 店内はなぜか明るく、内装は店舗らしい作りではなかった。ガラスと鏡で細かく仕切られた迷路のようになっていた。前方を歩くもう一匹の犬は、鏡像やガラス越しの姿で見え隠れしているが、ポチは迷いもせずにそのあとを追った。氏家は置いてきぼりにならないよう、しっかりリードをにぎっていた。犬たちの歩みは駆け足に変わり、速くなっていった。右や左に曲がるが、それでももう店の広さを超えているはずだと氏家は思った。やがて前方に、入ってきたのと同じようなガラス扉が見えてきた。犬たちと氏家は、ぶつかることなくそれを一気に通り抜けた。
「らっしゃい!」と突然声がした。そこは長いカウンターのあるバーだった。「あ、ペットは横の小部屋に預けてください」氏家は言われるままにしてから、スツールに腰掛けた。怪訝そうな氏家に、マスターが説明した。「入口のガラス扉は骨董品屋で見つけた曰く付きの物で、ときどき入るのに手間取るお客さんがいるんですよ。あいつが散歩をせがむんでね」顎で指し示した扉のガラスには浮彫風の犬の絵があった。

  【初出】謹賀新聞 第二九号(2018年1月1日発行)

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氏家六郎の平凡な日常 亥の頁

  亥の島にて

 僻地でのフィールドワークで怪我をした民俗学者の氏家六郎氏は、養生のため〈亥の島〉という孤島に渡った。島の民宿で旅装を解くと、近くの山に散歩に出かけた。島の名の由来は昔イノシシが多く棲んでいたことによるそうだが、今はもう一頭も残っていないという。緩やかな上りの踏み分け道をたどっていくと、がさがさと茂みを揺らす音がした。だれか山菜採りにでも来ているのだろうと思い先へ進むと、すこし開けたところで、向こうの茂みを抜けてきた大イノシシと目が合った。走っても逃げきれないだろうし、死んだふりではだませないだろう。逡巡して対峙していると、銃声が一発して、イノシシはどさっと倒れた。茂みをかきわけて、猟銃を持った猟師が姿を現した。
「危なかったな。この大きさでは、まともに襲われたら命がなかったじゃろう。近くの山小屋でこいつをさばいて猪鍋をするから、つきあわんか?」
 命を救われた氏家は喜んで誘いに応じた。手を貸してイノシシを山小屋まで運んでいくと、猟師が手際よく獲物をさばいていくのを見守った。鍋に猪肉と山菜をほうり込み、酒を飲みながら鍋を味わった。仕事柄ひとの話を聞くのに慣れた氏家は、夜遅くまで猟師から狩りの体験談を引き出した。猟師はとても上機嫌だった。
 翌朝目を覚ますと猟師の姿はなかった。もう狩りに出たのだろうと考え、彼は山を下った。民宿にたどりつくと、心配顔をした民宿の主人の出迎えを受けた。事情を話すと、主人はこう言った。
「何年も前、最後のイノシシと島の猟師が対決しました。結果は相打ちでした。両者とも無念で成仏できず、山の中で相手を探して戦い続けているといわれてます。あなたが出会ったのはきっとその猟師とイノシシの幽霊ですよ。やっとその決着がついたんでしょう」
 幽霊に接待されたらしいと分かった氏家は、次の船で早々に島を離れた。

  【初出】謹賀新聞 第三〇号(2019年1月1日発行)

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氏家六郎の平凡な日常 子の頁

  おむすびころりん

 氏家六郎がデスクに向かっていると書斎の中を何か小さな黒いものが走るのを、目の隅でまた見た。ここ数か月、何かが家の中で動き回っているような気がするのだ。ネズミだろうか。それとも年のせいで目の中に黒い物ものが見える飛蚊症だろうか。このところよく物が見つからなくなるのも年のせいかもしれない。いまも引用しようと思っていた文献が見つからなくて困っていたところだ。彼はその文献名をつぶやいて「いったいどこなんだ」と毒づいた。すると、何か黒いものが目の前を横切ったような気がして、デスクの隅に積み上げた書類が崩れ、残った書類のいちばん上に探していた文献が現れた。
 それ以降ばかばかしいと思いつつ、何か見つからないものがあると彼は大声で叫んでみることにした。すると必ず何か黒いものが目の隅で動いて、探し物に導いてくれた。たとえば棚のファイルが飛び出してきて、間違ってそのファイルにはさんだまましまったメモが見つかった。そんなことがたびたび起こった。民俗学者の氏家は「おむすびころりん」のようなネズミの恩返しを連想したが、ネズミに恩返しされるようなことをした覚えがなかった。
 電話が鳴った。相手は同じ大学の別の学部の同僚だった。「氏家先生。半年たちましたが、マウスの効果はどうですか?」「何の話だ」「ネズミ型AIロボットMOUSEをご自宅に置いて効果をみて頂くことにしたじゃありませんか……」「MOUSEだと!」氏家がそう叫ぶと、何かが動き、説明書が目の前にフワリと飛んできた。それを目にして思い出した。略称MOUSE――遺失物探索支援装置は、目立たないように主人を観察し、行動データを蓄積・分析してどのように物をなくすかを学習する。そしていざ主人がなくした物を探そうとすると、行動パターンから最もありそうな場所を提示してくれるのだ。その効果実証実験に協力することにしたが、すっかり忘れていた。氏家は答えた。「ああ、とても助かっているよ。お礼に何をしたらいい?」「そうですねえ、学食の特製おむすび定食でもおごってもらいましょうか」

  【初出】謹賀新聞 第三一号(2020年1月1日発行)

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氏家六郎の平凡な日常 丑の頁

  牛に願いを

 民俗学者・氏家六郎は、仕事柄フィールドワークが多いので、健康維持のために散歩は欠かさないようにしているが、ときどきコースを変えて、いつもと違う道にとることがあった。今日も隣町まで足を延ばした。古い軒並みの続く住宅街の切れ目に神社があった。鳥居をくぐって進むと、境内に牛の臥像が安置されていた。いわゆる「撫牛なでうし」らしく、鼻先からしっぽまで参拝者になでられて光っていた。縁起を知りたいものだと思ってあたりを見まわしたが、神主もおらず、説明板もなかった。
 近ごろとみに視力の衰えを感じはじめた氏家は、特に信心深いわけではないが、牛の像の両眼を撫でて目の健康を願い、その後、本堂に参拝した。気づくと空はもう暗くなりはじめていた。遠出したので、自宅に近づくころには、陽はすっかり落ちていた。街灯のない道を通るので、車や足元に気をつけていたが、なぜかあたりがはっきり見えた。家に入る前に夜空を見上げると、満天の星を見ることができた。そんなに視力はよくなかったはずだ。もう撫牛様の御利益が現れたのかと、氏家はびっくりした。
 それからは、仕事をしていても、文献を読むのが楽になり、パソコンと長時間向き合っても目が疲れなくなった。だが、歳のせいか今度は足の衰えを感じるようになってきて、長い時間散歩するのが億劫になり、歩く速度も落ちてきた。それでもなるべく散歩は欠かさないようにしていたが、目の御利益をさずかった撫牛様にすがって見ようと思い、隣町の神社を訪れた。
 昼間だったので、白装束の神主が庭を掃いていた。牛の臥像に近づくと、神主が声をかけてきた。
「その牛は撫でないほうがいいですよ」
「でも、御利益があって、視力がよくなりましたよ」
「その代わりにこの牛は代償を求めるんですよ」
「では最近足が弱くなったのはそのせい?」
「それは弱くなったのではなく『牛歩』になったんですよ」
 驚いた氏家は神主の忠告に従い、牛のしっぽを撫でて願いを取り消しにした。

  【初出】謹賀新聞 第三二号(2021年1月1日発行)

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氏家六郎の平凡な日常 寅の頁

  張子の虎の怪

 民俗学者・氏家六郎が帰宅すると、小さな箱が配達されていた。送り主の名前はない。中にはビニール袋に入った虎の飾り物があった。張子の虎のようだが、首と胴がつながっているので、首を振ることはない。誰かが旅行の土産に送ってくれたのかもしれない。名前を書き忘れたことに気づき、そのうち連絡してくるだろうと思い、とりあえず、飾り棚の鉢植え植物の横に置いておいた。
 その張子の虎のことは忘れていたが、一週間ほどして飾り棚のほうを見ると、鉢植えの植物がすっかり枯れていた。その代りに、虎が少し大きくなっているような気がした。虎が植物の「気」でも吸い取って成長したのかとも思ったが、民俗学者としては、そんな非科学的な超常現象を信じることはできなかった。だが、さらに一週間ほどすると、もう見間違えようもなく、張子の虎は大きくなっており、子猫ぐらいの大きさになっていた。自分の「気」まで吸い取られているのではないかと疑ったが、だれかからの頂き物の虎を捨てるわけにもいかず、とりあえず、研究資料などを保管している書庫に移した。張子の虎は確かに届いたときより重くなっていた。
 それからさらに一週間ほどして、こっそり書庫を覗いてみると、張子の虎はもう彼の飼い犬ほどの大きさになっていた。書庫の中にはいつもと違う気配が漂っていた。さらに二週間ほどしたころ、大学の理学部の友人が訪ねてきて、言った。「先月送った虎のようすを見せてくれないか」
「えっ! きみが送ってきたのか。あの化け物は何なんだ? 説明書も入ってなかったぞ」
 とりあえず見せてくれというので、書庫に連れて行って恐る恐るドアを開けると、虎はまた二回りほど大きくなっていた。友人は満足そうに言った。
「おお、期待以上の成果だ。これは新開発の吸水樹脂を使った強力除湿剤なんだ。虎のほうが《水とりぞうさん》より強そうだろ。それに『タイガーの水も一滴から』とか言うじゃないか。唯一の欠点は、水を吸って大きくなりすぎると、ごみ収集に出せないことなんだ」

  【初出】謹賀新聞 第三三号(2022年1月1日発行)

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氏家六郎の平凡な日常 卯の頁

  兎を追うな

 民俗学者・氏家六郎は自宅の庭の一角に家庭菜園を作り、いまはニンジンを育てていたが、昨日、動物にかじられたあとを見つけた。土に残った足跡からどうやら兎のようだった。そこで今朝は早くから植え込みの陰に隠れて菜園を見張っていた。すると案の定、草をかきわけて白兎が飛び出してきた。だが今日はニンジンに目もくれなかった。それより奇妙なのは兎がベストのような服を着ていたことだ。近所の家兎で、ペット用の防寒着を着せているのだろうか。飼い主が探しているかもしれないと思い、捕まえようとしてそっと近づいたが、兎は気づいて走り出した。走りながら「おくれちゃう、おくれちゃう」と鳴いているような声が聞こえた。追っていくと、近くの空き地に逃げ込み、隅に積んであった土管の中に飛び込んだ。氏家もそのあとを追って飛び込み、四つんばいになって進んだ。反対側の口に出たと思った瞬間、足元に空いた穴に転げ落ちた。さいわい穴の深さは五十センチぐらいだったので自力で這い出し、泥を払いながら立ち上がると、目の前にくだんの兎を抱いた女性が立っていた。
「ごめんなさい。うちの子がご迷惑をかけて。あらかじめ穴を掘っておくなんてやりすぎよね」
「その兎が追いかけられるのを予期して自分で掘っておいたんですか?」
「そう。今日は《不思議の国のアリス》モードだったみたい。」
「なんで、兎にそんなモードが?」と氏家。
「この子、いま話題になっているペット・ロボットの『まねっこ兎』なの。いろんな兎の真似をするのよ。ミフィーとか、サンリオのマイメロディとか。アニメのバッグス・バニーの真似もできるし。それに合わせて外観も変わるの。ねえ、ピーター!」
 そう呼ばれると、兎の毛色が《ピーターラビット》の茶色に変わった。それで昨日はニンジンをかじられたのかと氏家は納得した。
「でも、扱いに気を付けないとひどい目にあうの。飼い主がいじめられるとその相手に仕返しするそうだから。《かちかち山》モードっていうので」

  【初出】謹賀新聞 第三四号(2023年1月1日発行)

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氏家六郎の平凡な日常 辰の頁

  床の間の竜

 民俗学者・氏家六郎は高校時代の友人に呼ばれてその寺を訪ねた。友人は親の跡を継いでいま住職になっていた。床の間のある和室に通された氏家は座卓をはさんで向かい合った。「久しぶりだな、氏家。実は見てもらいたいものがあるんだ。きみは民俗学を専門にしているから、何か分かるんじゃないかと思ってな」住職は細長い桐箱から掛け軸を取り出し、床の間に掛けて、座卓に戻った。墨絵を表装したもので、かなり古いものらしい。
「むかしから寺で所蔵しているものなんだ。いっしょに収められている由緒書きがこれだ」そう言って薄い和綴じ本を差し出した。
 氏家はそれに目を通しながら言った。「この絵は、むかしこの寺に逗留した雲水僧が描いてくれたものらしい。日照りが続いて村人たちが苦しんでいたので、竜神に雨乞いをしようと、僧が願いを込めて竜の絵を描いたのだ。だがその雲水の画力はつたなかったのでたいした雨は降らず、またすぐに水涸れが続いたようだ」
「そうなんだ。確かにこの絵は下手くそで、いわれなければ竜と分からないほどだろう。だが、この絵を飾るとおかしなことが起こる。見てくれ」住職が座卓の上を指さした。座卓の表面が薄っすらと水滴でおおわれていた。「きっと、これは竜ではなく、蛟(みずち)か何か悪さをする生き物の絵で、その呪いじゃないかと思ってな。それで君に来てもらったんだ」
「そういうことか。確かに窓ガラスも水滴で曇っている。秋場で、こんなに湿度が低いというのに――。由緒書きを信じるなら、この絵には画竜点睛の故事のように霊力があるのだろう。だが竜神の力があまりにも弱いんで、この程度の水しか望めないということだ」
「なるほど。でも、これではいざというとき何の役にも立たないな」住職が納得しながら呟いた。
「そうでもないさ。乾燥した季節に床の間に掛けておけば、加湿器の代わりになるだろう」

  【初出】謹賀新聞 第三五号(2024年1月1日発行)

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