氏家六郎のフィールド・ノート

「氏家六郎の平凡な日常」

氏家六郎のフィールド・ノート 子の頁

  鼠長者伝説

 民俗学者 氏家六郎と助手のアマネは必死で走っていた。
 話はその半日前、人里離れた寒村にたどりついたところから始まる。「ここが鼠長者の言い伝えがある村だ」氏家が言った。「この説話はおそらく『おむすびころりん』のような鼠浄土伝説の変型だろう。握り飯を鼠穴に落とした爺が鼠に《()国》に招かれてもてなしを受け、財宝をもって帰ってくるという昔話は、君も知っているな」
「はい。隣の爺がそれをまねして強欲を出し、失敗するという話ですね」とアマネ。「『日本昔ばなし』で見ました」氏家は助手の言葉を無視した。
 なぜか人影の見えない村を、何時間も歩き回って調査の手がかりを探していたふたりは、村はずれで鼠顔の小男に出会った。その男に案内を頼み、鼠長者屋敷の跡と言われる場所におもむいた。屋敷の痕跡は礎石しか残っていなかったが、近くに古い小さな(ほこら)があった。祠の扉は朽ち果て、中をほとんど占めている岩が見えた。その岩は縦にまっぷたつに割れ、間に深い闇があった。
 岩に刻まれた梵字を解読して、氏家が言った。「私の推論は間違っていたようだ。鼠長者は財宝をもらった爺ではなかった。隣の爺だったのだ」
 鼠顔の男が不意に口を開いた。「そう。失敗を恨んだ隣の爺は、まじない師に頼んで《子の国》に通じる穴を封印した。そして鼠の害を抑え続けることの報酬を村人から集めて長者になったのさ」
「日本版《ハーメルンの笛吹き》か」と氏家。
「だが、何百年もたってその呪詛の力はようやく薄れ、封印の岩が割れたというわけだ」小男の唇の間から鋭い歯がのぞいた。
「アマネ、見ろ!」氏家が指さした岩の割れ目の向こうの暗闇に、幾星霜の恨みに燃えた無数の小さな目が光っているのが見えた。アマネが先に、向きを変えて脱兎のごとく走り出した。

  【初出】謹賀新聞 第二〇号(2008年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 丑の頁

  迷宮伝説

 民俗学者、氏家六郎は巨大迷路の中で途方にくれていた。地方での調査の後、新しいもの好きの助手のアマネに強引に誘われて、現地に最近できたテーマパークの巨大迷路《東北ラビュリントス》に入ったのだが、途中でアマネとはぐれてしまったのだ。このテーマパークは自然の利用が売り物で、迷路も岩壁や岩穴や、大木や厚い植え込みで出来ていた。迷路の名はギリシア神話でミノス王が作らせた迷宮から拝借したものだ。
 氏家が袋小路で植え込みの薄くなったところを無理やり抜けると、岩山に掘られた横穴の前に出た。鎌倉でよく見かける《やぐら》だ。奥に等身大の古い石像が安置されている。職業的な興味から詳しく調べてみたが、この施設のための作り物ではなく、迷路が出来る前からあったらしい。
 どうにか迷路を抜け出して出口でアマネと合流した氏家は、テーマパークの事務所で責任者にあの《やぐら》のことをたずねた。最初は口を濁していた責任者はやがて重い口を開いた。施設建設中にあの横穴と周辺の遺跡が見つかったのだが、役所に届け出ると学術調査で開業が遅れるので、黙ってそのまま建設を進めたというのだ。
 氏家が言った。「あの石像は人身牛頭をしていた。仏教説話の地獄の獄卒、牛頭(ごず)や京都八坂神社にも祀られている牛頭天王の信仰と関係があるのかもしれない。ギリシア神話には奇しくも迷宮ラビュリントスに閉じ込められた牛頭の怪物ミノタウロスが出てくる。少年少女七人ずつの生け贄を毎年捧げていたが、英雄テセウスが退治したという話は聞いたことがあるだろう」
 一ヵ月後。研究室でアマネが新聞記事を見ながら言った。「先生、あの巨大迷路、閉鎖になったそうです。行っておいてよかったですね」
「遺跡の発見を隠してレジャー施設開発をしたのが、役所にバレたんだな」と氏家。
「いえ、迷路に入った少年少女が何人も戻って来ないんだそうです」

  【初出】謹賀新聞 第二一号(2009年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 寅の頁

猛虎伝説

「あそこで休もう」民俗学者、氏家六郎は前方に見える小さな社を示して助手のアマネに言った。僻地の村で調査を終えた帰り道で濃霧に会い、晴れるまでの待避場所を探していたところだった。その社はかなり古いもので、名を記した額もなく、格子扉の上に掲げた虎の絵馬と、参拝者が鳴らすための鰐口があるだけだった。氏家が興味深げに言った。「鰐口を鳴らす紐を見ろ。ふつうなら紅白の布を編んであるが、これは黒白だ」「呪詛専用の神社だとか。それなら、先生に対する積年の恨みを――」アマネがその紐をつかんで、鰐口を鳴らそうと思い切り振った。すると紐がはずれて落ちてきた。「やばい!」とアマネ。氏家はあきれ顔で扉を開けて中に入った。社の中はがらんどうだった。アマネはとれた紐を持って、どうしたらいいものかと考えながらあとから入ってきた。
 夕方になっても霧は晴れず、結局この社で夜を明かすことにした。明け方近くに氏家は目を覚ました。外で動物のうなり声のようなものを聞いたのだ。アマネも起きていた。扉の格子ごしに外を見た。薄れかけた霧の中で猛獣の両眼が光り、再びうなり声がした。風で霧が流れた瞬間に氏家はその顔をちらりと見た。氏家は叫んだ。「アマネ! 扉を開けて、その紐をできるだけ遠くに投げろ!」怪訝そうな顔で助手はそれに従い、急いで扉を閉めた。「こんなことしても……」だが、それ以降、獣のうなり声は聞こえてこなかった。
 まんじりともせずに夜明けをむかえたふたりは霧の晴れた屋外におそるおそる出た。「先生、あいつは何だったんです? 近所のペットが逃げ出したとか」「あれだ」と氏家が振り返って絵馬を指差した。「虎?」「いや、昨日はよく見えなかったが、まちがいなく白虎だな。青龍・朱雀・玄武と並ぶ四神のひとつだ。おまえがつかんでいたのは紐ではない。白虎の尾だ。やつはそれを取り返しに来たのさ」

  【初出】謹賀新聞 第二二号(2010年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 卯の頁

  兎穴伝説

「やっと獲物をみつけた狩人は、その兎を追って山の中に入って行っただ。すると兎は穴の中に逃げ込んでしまっただと」奥地の山村にフィールド調査に来た民俗学者、氏家六郎と助手のアマネは囲炉裏の前で宿の主の昔語りに耳を傾けていた。
「獲物を逃すまいと、狩人は切株に腰をおろして兎が穴から出てくるのをじっと待っていた。そのうちに男はうつらうつらしてしまったんだ。ふと目を覚まして、まだ兎が穴の中にいるか確かめようと、穴に頭をつっこんで中を覗き込んそのとき、誰かに背中をどんと押され、男は井戸のようになった穴の中に落ちてしまった。深い穴の底で、どうやって上にあがろうか考えているうちに、足元が濡れてきたんじゃ。水かさはどんどんに増してゆき、ついに首まで水につかってしまった。恐ろしいことに近くで鼠の鳴き声まで聞こえた。必死になって穴のまわりの木の根をつたってようやく穴から這い出すと、目の前に人が立っていた。それは山奥にはふさわしくないきちんとした身なりの娘っ子だった。自分を穴に突き落としたのはお前かと問いただすと、突然、娘の目が真っ赤に燃え、口が耳まで裂け、首がするすると蛇のように伸びて男に向かってきたんだと。かっと開いた口の中に鋭い歯が見えたとき――狩人はほんとうに目を覚ましたんじゃ」宿の主は言葉を切ってニヤリと笑った。アマネは脱力感を覚えた。
「肝をつぶした狩人は、もう兎のことはあきらめて山を駆け下り、野良仕事をしていた男をつかまえて、夢の話を聞かせたそうな。すると農夫はほっかむりをとりながら言ったんだ。『その娘はこんな顔だったのかい』――あの古い兎穴の言い伝えはそこまでだ」話しながら囲炉裏の火を掻き起こしていた宿の主は、頭を上げてアマネのほうを見た。その顔は――
 アマネは全身に汗をかいて夢から覚めた。「どうやら昨晩の宿の兎鍋が当たったようだな……」

  【初出】謹賀新聞 第二三号(2011年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 辰の頁

  龍鏡伝説

「遠いところ、よくいらっしゃいました」民俗学者 氏家六郎と助手のアマネを迎えて、役場の課長はそう言った。そこで竜神沼の場所を確認すると直ちにフィールドワークに向かった。途中、雨に降られたが、用意の雨具でしのぎ、沼を半周したところで目的の祠をみつけた。
「新品の靴が泥だらけになっちまった」アマネが愚痴を言った。
 石積みの台の上に乗った祠はかなり古びていた。中に白銅製の丸鏡が祭られている。氏家は鏡をそっと取り出し、裏面を観察した。「龍が周りを取り囲んでいる珍しい神獣鏡だ。写真を撮るから鏡を持っていろ」そういってアマネに手渡したとき、助手が手をすべらせて鏡を取り落とした。鏡は数メートル先まで転がって止まった。その時、激しい地響きがした。「地震か?」と氏家。
 それ以降何事もなく、ふたりは調査を終えて役場に戻った。すると出迎えた課長が言った。「遠いところ、よくいらっしゃいました」まるで初対面のような口ぶりだ。氏家は適当に話を合わせると早々に役場を飛び出した。
「アマネ、もう一度あの祠に行くぞ!」
「何でです?」
「地面が濡れていない。もうすぐ雨が降るだろう」その通りになった。アマネはわけもわからずあとについていった。
 氏家は祠で鏡を取り出し、汚れをこすり落としてよく観察した。「やはりそうだ。龍が自分の尾を飲み込んで円環になっているだろう。ウロボロスだ。無限、輪廻の象徴だ。ウロボロスの呪いで我々は時間のループに捉えられた」
「そんな!」アマネは困惑し、靴の泥を祠の石台の一番下の鱗状の突起でこすり落しはじめた。その時また激しい地響きがし、耳を聾する咆哮も聞こえた。気が付くとふたりは星空の下に倒れていた。
「どうやらループから抜け出せたらしい」
「何があったんです?」
「おまえが靴でこすっていたのは、龍の下顎の鱗、逆鱗だったのだろう。怒った龍が吼えた拍子にくわえていた尾を放して、円環が開いたのさ」

  【初出】謹賀新聞 第二四号(2012年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 巳の頁

  大蛇伝説(おろち   )

 民俗学者、氏家六郎と助手のアマネは古寺の前に立った。「この寺は大蛇寺>(おろちでら)と呼ばれている。今回の調査はその名前の由来を探ることだ」氏家が説明した。
「楳図かずおに由来するんでしょうか?」と言うアマネを無視して、氏家は苔むした山門をくぐった。
 本堂で彼等を出迎えてくれた年老いた住職が、質問に応えて語りはじめた。「その昔この村に、田畑を荒らし、家畜や人を食らう大蛇がいたそうな。ある日、この村を通りかかった行脚僧が、村人たちの難儀を見かねて、自ら大蛇退治を申し出たそうだ。僧は木桶に満たした酒を大蛇に差し出して酔わせ、眠ったところを捕らえた。しかし、仏に仕える身として殺生はできないので、呪法によって悪行を封じるまじないをかけて、大蛇を放逐したということだ。僧はそのあと村にこの寺を建ててここに留まったという。それがこの寺の来歴です」
 そこで一旦話を切った。もう陽がだいぶ傾いて、本堂は薄暗くなっていた。住職は腰を上げて奥の部屋に行くと、大きな細長い箱を持ってもどってきた。
「この話には、あまり知られていない後日談があります。まずこれをご覧ください」そう言って中から大きな巻物を取り出して、少し広げて見せた。そこには梵字で何か書かれていた。「これが大蛇にかけたまじないです」
 アマネが興味深げに覗きこみながら聞いた。「それではこの呪文をとなえて退治したんですね」
「違います。この経文を大蛇の全身に書いて悪行を封じたのです。放逐された大蛇は山奥で時がくるのを待ちました。蛇は成長するときに脱皮します。大蛇は脱皮して呪縛から解き放たれ、里にもどって僧侶をひとのみにすると、自分が僧侶に化けて寺に居ついたといわれています。この巻物はその大蛇の皮ですよ」そう言ってニヤリと笑った僧侶の歯の間から、二股に分かれた細い舌がチラチラ揺れるのが見えた。

  【初出】謹賀新聞 第二五号(2013年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 午の頁

  題名未定

   近日公開

  【初出】書下ろし(2020年吉日)

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氏家六郎のフィールド・ノート 未の頁

  金羊伝説

 民俗学者、氏家六郎は鳥居の額を見上げた。かろうじて《金羊堂》の文字が読み取れる。助手のアマネが鳥居の向こう側で叫んだ。「先生、見てください、羊の像ですよ! まるで天満宮の《なで牛》だ」そう言いながら石の台座の上の黒光りした羊の臥像の頭をなでている。
 氏家は近づいて仔細に観察した。「元は全身金箔張りだったようだな」
 ふたりは朽ちかけた御堂に入った。散らばる古い祭具を丹念に調べていると、土埃にまみれた巻物がみつかった。《金羊堂縁起》と記されている。明るいところで氏家はそれを広げた。
「これは羊皮紙の巻物だ」読み進む氏家の目が次第に輝いていった。アマネのじれったそうな視線に応えて、氏家がかいつまんで話をはじめた。「その昔、大陸からこの地の豪族に金色の羊が献上されたそうだ。ギリシア神話にも、星座の牡羊座の起源になった金の毛の羊の話がある。羊の死後、このお堂が建てられ、金箔張りの像が安置されたそうだ。その羊の死が問題だった。人魚の肉を食って不老不死になった八百比丘尼の伝説を聞き知っていた豪族は、この金の羊の肉を食えば神力が得られるはずだと思った。ところが食われた金の羊の呪いで、像をなでた参拝者はみな願ったこととは逆の目にあい、その豪族は没落した」
 アマネはあせった。「ぼくはもう像の頭をなでてしまいましたよ。頭がよくなるようにお願いして」
 氏家が冷たく言う。「心配ない。それより悪くはなりようがない」
 一通り調査を終えた氏家はうなだれるアマネをつれて御堂を出た。像の台座の陰に男がうずくまっているのが見えた。髪は伸び放題で薄汚れた防寒着に身をくるんでいる。男の脇を通りすぎてから氏家が小声で言った。「あの男が着ている物を見たか? あれは羊の皮だ。こびりついた汚れでわかりにくいが確かに金色の毛の――」
 アマネは振り返った。「じゃあ、あの男は金の羊の肉を食った……。ああっ、頭がくらくらします」

  【初出】謹賀新聞 第二六号(2015年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 申の頁

  猿田彦伝説

 民俗学者、氏家六郎は山裾の古びた石碑を丹念に調べてから口を開いた。「これは庚申塔だ。表面に掘られているのは猿田彦神だな。長い鼻で見分けがつく」
「手塚治虫の『火の鳥』で見たことがあります」と助手のアマネが言った。
「『日本書記』ぐらい読んでおけ」氏家があきれて言った。「天孫降臨のとき天孫を案内したので旅行神として祀られることもある」
 調査を終えたふたりは宿所のある村にもどろうとしたが、途中で道に迷ってしまった。すると眼前に数匹の野猿が現れた。襲ってくる気配はなく、どうやら自分たちについて来いと誘っているようだった。「猿田彦の手下じゃないんですか。行ってみましょうよ」とアマネ。猿に導かれ、茂みをかきわけてしばらく進むと、開けた場所に出た。その真ん中に池があり、湯気が立っていた。
「猿の湯だ!」氏家が目を見開いて小声で叫んだ。「手負いの猿が傷を治したという『猿の湯』の伝説が各地にある」
 猿たちはふたりにその温泉に入るよう促した。まわりで五、六匹の猿が見守っている。仕方なくふたりは服を脱いで温泉に入った。
「いい湯ですね。最近、研究室の蔵書のかたづけで肩をこわしているのでちょうどよかった」アマネが気持ちよさそうに言った。一時間ほど浸かってのぼせてきたので、湯から上がって服を着ると、先ほどふたりを案内してきた猿たちがまたついてくるよう促した。黙って猿について茂みの中を行くと、村のはずれにたどりついた。猿たちはそこで姿を消した。
 宿所にもどって宿の主人にその話を聞かせると、主人は苦笑いして言った。「先生たちもあいつらに引っかかりましたか。やつらは何をしていると思いますか」怪訝な顔をするふたりに主人は説明した。「あいつらは夕食の出汁をとったんですよ。おふたりから」

  【初出】謹賀新聞 第二七号(2016年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 酉の頁

  鶏神伝説(にわとりがみ   )

 民俗学者、氏家六郎はフィールド調査のために助手のアマネを伴って、鶏神の伝承が 残る その村の神社を訪れた。本堂の前には左右に鶏の石像が据えられていた。
「見たまえ」と氏家は言った。「鶏は夜明けを告げる鳥だが、また祭事などの終りを告げる鳥ともされている。一方の石像は嘴を開けて『()を発し、もう一方は嘴を閉じて『(うん)』を表している。つまり万物の始まりと終りを告げる神鳥だ」
「狛犬みたいですね。鳥だからこまどりか」アマネはそう言い、クックロビンがどうのという歌をつぶやきながら盆踊りのようなしぐさをしたが、氏家はそれをきっぱり無視して本堂に進んだ。中に入ると、神座に大きな黒い石が祀られていた。「鶏石(にわとりいし)だ」と氏家。「闇の中で鶏の鳴声を発して敵兵を撃退するなどの奇跡を起こした鶏石の伝説は各地に残っている」
「何か御利益があるんでしょうか。朝寝坊が直って早起きになるとか――」アマネが石に手を伸ばした。
「待て!」と氏家が止めたが、遅かった。アマネは石をさすっていた。氏家が説明した。「石の四方に縄を張って結界を作っているだろう。何かを封じ込めるためだ。それを破るとたたりがある」
「早く言ってくださいよぉ」とアマネ。
 その後、ふたりは社殿の中を一通り調べ終え、村役場に戻った。村の助役が対応に出てくれた。「お帰りなさい。言い忘れましたが、まさか社殿にお祀りしている御神体の石には触れなかったでしょうね。鶏神様のたたりがありますから」
 アマネが真っ青になった。「ど、どんなたたりなんです? この世の終りが来るとか……」
 助役が言った。「何でも、物忘れがひどくなるということです。でも、心配には及びませんよ。たたりはそう長くは続きません。鶏神様も三歩歩くと忘れてしまいますから」

  【初出】謹賀新聞 第二八号(2017年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 戌の頁

  狛犬伝説

「…!」その古い神社で発見した狛犬像を見て、民俗学者 氏家六郎は声を飲んだ。ふつうなら神社の前に左右一対置かれるはずの狛犬の石像が一体しかなく、その代わり一つの像に頭が二つもついており、首のまわりのたてがみの一本一本は蛇をかたどっている。
「先生! これは?」助手のアマネが聞いた。
「ケルベロスだ、ギリシア神話の冥府の番犬の…。この比良坂神社は死後ヨモツオオカミ(黄泉大神)になったイザナミノミコトを祭っている。ということは日本版ケルベロスが守るこの社殿は、黄泉の国に通じる《よもつひらさか》の入口ということになる」
 崩れかけた社殿に入ったふたりは、果たして祭壇の裏にほら穴をみつけた。
「入ってみよう、アマネ!」
「僕は遠慮しときます」
「弱虫め」そう言うと氏家は胸ポケットからペンライトを取り出し、ひとりで下り勾配のほら穴をゆっくり下って行った。穴は脇道もなくどこまでも続いていた。一時間余り歩いたころ、前方に赤い点が四つ光っているのを目にした。それと、獣のうなり声が……
             * * *
「先生! どうやって、その地獄の番犬から逃れることができたんですか」
「ギリシア神話ではオルフェウスは歌で魅了して難を逃れた。だが、俺は音痴だ。もうおしまいだと思ったとき、犬の背後から一言、女の声がした。あれは、間違いなく番犬の飼い主のイザナミだ。それで犬の動きが止まったすきに、俺は全速力で駆けもどってきた。だが、あの一言の効き目がいつまで続くか」氏家は不安そうにつぶやいた。
「何と言ったんです」
「古代語だが意味はわかった。『お預け』だ」

  【初出】謹賀新聞 第一八号(2006年1月1日発行)

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氏家六郎のフィールド・ノート 亥の頁

  猪神伝説(いのがみ    )

 民俗学者 氏家六郎は調査目的の山村に向かう山道を歩きながら助手のアマネに説明した。「このあたりではイノシシを山の神として崇めている」
「アニメで見ました。『もののけ姫』の乙事主」とアマネ。
 氏家はあきれて「少しは専門書を読め。ところがある村で、飢饉の時にその山の神の大イノシシを捕らえて食ってしまった。牡丹鍋にしてな。それ以来その村の住民は代々呪われているという。その言い伝えの村を探すのが今回の目的だ」
 村に着いたふたりは、村長の家を訪れ、聞きとり調査を開始した。しかし、この村にそのような言い伝えはないという。
「ちょうどいい時に来なさった。今夜はイノシシ神様のお祭りの日だで、ぜひ泊まっていきなされ」
 ふたりは快く村長の申し出を受けた。
 夜になると、村の家々から老若男女が出てきて、神社に集まった。人々の輪の中で、イノシシの皮を着た老婆がお囃子に合わせて踊りはじめた。
 アマネが言った。「イソップにありませんでしたっけ。『シシの皮を着たロバ』」氏家は無視した。
 やがて山の端に月が顔を出した。十五夜の満月があたりは昼のように照らした。
 興味深げに祭りのようすを観察していた氏家が、突然、小声で言った。「アマネ! 気づかれないように宿所にもどれ。急いで山を下りるぞ」
 有無を言わせぬ口調にアマネは従った。祭りからそっと抜け出したふたりは、荷物をかき集めると、追われるように細い山道を駆け下りた。ふもとにつくと氏家はやっと立ち止まった。
「何があったんです、先生。私たちがイノシシ神様の生け贄にでもされると思ったんですか」怪訝そうにアマネがきく。
「やはり、あそこが呪われた村だった。見たんだ。村人たちの口の中を。月光を受けて、下顎の犬歯が伸びはじめた。あいつらは猪男と猪女だった!」

  【初出】謹賀新聞 第一九号(2007年1月1日発行)

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