■アリスと宇宙の魔神■

 虚無の海――宇宙。その底で真珠のように光り輝く無数の星、星、星。
 アリス・ストーンはその中を慣性で漂泊していた。
 宇宙船が、さながら大海の中の一分子の水のような存在の彼女を、見つけ出す確率はほとんどゼロに等しかった。彼女が宇宙服内蔵の無線機の故障に気がついたのは、彼女の命綱が切れたあとだったのだ。その切れた命綱は今は無意味に慣性飛行の尾を引いている。
 星々は瞬きもせず、じっと彼女を見つめている。その光は冷徹でもあり、また同情的でもあった。
 ボンベの中の酸素は残り一時間しか持たない。黒い翼を持った天使が秒刻みに彼女に近づいて来る。残された一時間が呼吸され尽した時に、その漆黒の翼で彼女を被うために……。
 その時ふいに彼女のからだに軽い衝撃を感じた。彼女はとっさに宇宙服に何かがぶつかったのだと悟り、からだをまげて衝突した物体を両手でつかまえた。それは金属のフラスコのようなものだった。
「よりによって宇宙のどまんなかに、どうしてこんなものが……」
 それが彼女の頭に浮かんだ最初の疑問だった。それからすぐに、この広大無辺の宇宙においてそれが自分にぶつかったのは全く奇跡的であったことに気づいた。
 彼女は宇宙服の手で不器用に試行錯誤して、ようやく栓をゆるめることが出来た。彼女が栓をあけると同時に、中から勢いよく煙が吹き出した。それはたちまちのうちに彼女の眼前に広がり、次第に巨大な人間の形になってきた。次の瞬間、それは形だけでなく、巨人そのものになった。
「まさか。まさか。私は気が狂ってしまったの……」彼女はうわごとのようにつぶやいた。
 その巨人は、ちょうどアラビアン・ナイトに出てくる魔神のようだった――頭にターバンを巻き、顔中にひげをはやし、腰には布をまとった――。巨人はあくびをするように両腕を伸ばすと、何か言った。しかし、その声は彼女の頭の中で響いた。
「おおっ。俺はついに自由になった。自由だ! 自由だ!」
 巨人はアリスの存在を認めた。この空虚な宇宙で、身を隠すことは不可能だった。巨人は大きな目玉でギョロリと彼女をにらむと、大木のような太い指で彼女をつまみ上げて、ひげもじゃの顔に近寄せた。
 再び頭の中で声がした。
「ハハーン。俺を自由にしてくれたのは、おまえだな」
「そ、そうです」
「少し固そうだが、殻をむけば食えないこともないだろう」
「ちょ、ちょっと待ってくれる。そんなバカな。せっかく自由にしてやったのに、私を食べるなんて」
「まあ、不運だと思ってあきらめるんだな。俺はツボの中にいる時に、そう決めたんだ。俺をこの中に閉じ込めた仕返しに、自由になった時に、まず一番近くにいたやつを食ってやるとな」
「そんな、非論理的な。恩知らず! けだもの!」
 巨人は。その言葉を無視して、彼女を口に持って行き、巨大な歯で宇宙服を噛み砕こうとした。
「ス、ストップ。ちょっと待ってくれる。あなたはそんなに大きくなってしまったけど、もう、その中にはいることは出来ないんでしょう」
 彼女は金属製のツボを示して言った。すると、頭の中で割れるような声。
「ハッハッハ。俺がその中にはいったら、栓をしちまうって考えなんだろう。陳腐な手だ。俺が地球にいた時に、その手にまんまとひっかかって、びんに閉じ込められたことがある」
 彼女の顔に失望の色が浮かんだ。
「どうせ死ぬのなら、私の乗っていた宇宙船を見てから死にたい。宇宙船のそばまで連れていってくれる。お願い」
「いいだろう」
 巨人は両手でアリスを包むようにすると、宇宙空間を飛び出した。巨人の大木のような指の間から、星の光が縞模様になって見えた。
「着いたぞ」
 巨人はそう言うと、手を開いた。
 アリスの目の前には、先程まで彼女が乗っていた宇宙船があった。彼女は大声で叫びたい衝動にかられた。しかし、そうすることが無益だと十分知っていたから実行には移さなかった。
「これで満足だろう。では、食わしてもらおうか」
「ま、待って。そう、あわてないで。後生だから、もう一つ望みをきいてくれる。それくらい、いいでしょう――あなたを自由にしてあげたんだから」
「なんだ、言ってみろ」
「銀河系の中で一番きれいな花を一輪もってきてくれないかしら。この世の名残りに、何か美しいものを見たいの」
「ハハ。そんなことか。――おっと、その手は食わん。俺がそれを取りに行っている間に、逃げようというんだな」
「そんなこと言うなら、猛速度で行って帰ってくればいいじゃない――光りよりも速く。そんなに速くは飛べないのね。そうよ。あなたに出来るわけはない」
「朝飯前だ!」
 巨人はむっとして、そう言うが早いか残像を残してふと消えてしまった。
 レーダーで彼女を発見したらしく、宇宙船から宇宙ボートが飛び出して、彼女の方にやってくる。アリスはそれを待ちながら、魔神が去って行ったと思われる星の彼方を見やった。
「魔神さん、〈相対性理論〉というものを御存じなかったようね。もどって来るのは遠い未来かしら。それとも過去かしら。魔法には強いけど、科学には弱かったようね。ところで、宇宙船のレーダーに映った巨大な影をなんて説明しようかしら……」
 アリスはそうつぶやいて、苦笑いした。

              □おわり□

【初出】SFM同好会「宇宙気流」No.54(1968/03/11)/改稿・改題 2021/08/20

RETURN