■夢の花■

 授業がはやく終わった日は、遠回りをして海岸通りを歩くのがアリシアのおきまりのコースでした。
 潮の香り、はしけ船のエンジンの音、カモメの鳴き声、そして異国からきた船乗りたちの姿や話し声。みんなアリシアの心をわくわくさせるものばかりでした。この海の向こうには、自分の知らないすてきなものがいっぱいある。いつかきっと自分も海を渡って、そうしたものを見たり、聞いたり、さわったりできるんだ。そんな思いにさせてくれるのが、この海岸通りでした。
 今日もアリシアは、学校カバンを大きく振りながら、足どり軽く通りのまんなかを歩いていました。すると足もとを何かが走りすぎ、アリシアは急に止まろうとして、まえにつんのめりかけました。猫でした。毛足が長く、全身青みがかった灰色をしていました。猫はアリシアのまえを横切ると、倉庫のまえの石段に座っている小柄な男の人のひざの上にのりました。年とった船乗りで、ごま塩のひげが顔中をおおっています。
「お嬢さんをびっくりさせちゃいけないよ、スピニッチ」と船乗りが猫に言いました。
「その猫、スピニッチっていうの? おもしろい名前」とアリシアは話しかけました。
「そうだよ。こいつは猫のくせにホウレンソウ(スピニッチ)が好きなんだ。なあ、スピニッチ」と猫の頭をなでました。猫はニャアと小さな声をあげました。
「なんだ、食い物にありつけなかったのか。おかにいるときくらい、自分のメシのめんどうは自分で見なくちゃだめだぞ」
「あら、この猫、お食事まだなの。かわいそう。そうだ、ちょっと待って」アリシアは学校カバンの中に手をつっこんで、ハンカチに包んだものをとりだしました。
「これ、お昼の残りなの。ホウレンソウじゃないけど、お口にあうかしら」ハンカチづつみの中から出てきたのは、ツナサンドでした。スピニッチの目がキラッと輝きました。アリシアが手のひらにのせて差し出すと、ひざの上から飛び降りてきて、あっというまにたいらげてしまいました。
「これはこれは、ごちそうさま。そうだ、お礼にいいものをさしあげよう」船乗りはそう言うと、胸のポケットから古ぼけた革の小袋をとりだし、その中に指をつっこんで、小さな緑色の粒を一つつまみだしました。
「珍しい種だよ。わしがインドに行ったときに、ある坊さんからもらったものなんだ。鉢に植えて毎日水をやっとくれ。きっといいことがある」そう言って、空になったハンカチのまんなかにその種を置きました。
「何の種なの」アリシアは種と船乗りの顔を交互に見ながら聞きました。
「〈夢の花〉の種さ」船乗りはそれ以上説明しようとはせず、ただニコニコ笑っているだけでした。
 アリシアはお礼を言い、種を大切にハンカチに包んでポケットにしまうと、船乗りの老人と猫のスピニッチにさよならを言いました。
 家に帰ったアリシアはさっそく小さな植木鉢にその種を植えると、自分の部屋の窓辺におきました。
 それから毎日かかさずに水をやって、芽が出てくるのを待ちました。しかし、五日たっても十日たっても芽は出てきませんでした。二週間たつと、もうあきらめようと思いました。あの船乗りさんはとてもいい人みたいだったから、わたしをだましたわけではないんだ。きっと種をまいた季節とか、このあたりの気候とかがよくなかったんだ。そう考えました。
 その晩、夢を見ました。窓辺においた鉢が月の光をあびて、小さな芽がゆっくりと顔を出す夢でした。
 朝起きるとすぐに窓辺にとんでいきました。しかし芽は出ていませんでした。夢にすぎなかったのです。でも、もう少しのあいだ水をあげてみようと思いました。
 次の晩も夢を見ました。今度は開いた窓からさしこむ朝日をあびて、二葉が広がり、少しずつ伸びてゆく夢でした。その次の晩は、あの鉢がどこかの海を臨むベランダに置かれている夢でした。鉢の中ではもう本葉が広がっています。その葉はエメラルドグリーンで、薄くすべすべしており、奇妙な模様を描いた葉脈がすけて見えました。
 でも目を覚ましてみると、現実の鉢からは芽が生えてくる気配もありません。そっと掘りかえしてみましたが、緑の種からは根も生えていませんでした。種は土の中にもどしましたが、それから二、三日はがっかりして水もあげませんでした。
 また夢を見ました。場所はどこか砂漠地方の町のようなところで、広場で市が開かれています。人ごみをかきわけて見て歩いていると、露店の一つであの鉢をみつけました。暑い陽の光をあびて鉢の中の葉は元気がありません。露店の主人が顔をあげて言いました。「毎日水をやっとくれ。きっといいことがあるよ」その顔はあの船乗りの老人でした。
 そこで目が覚めました。アリシアは急いでベッドから起き上がると、鉢にたっぷりと水をやりました。やっとわかったのです。この種は、昼の世界では芽を出さないのです。夜の夢の中でだけすくすくと伸びてゆくのです。でも、水だけは現実の世界で毎日やらないと、夢の中の草もしおれてしまうらしいのです。
 それからは、かかさずに水をやりました。他の人が見たら、きっと変に見えたでしょう。なんにも生えてこない植木鉢に毎日水をやっているのですから。でもこれはアリシアだけの秘密で、人に話すわけにはいかないのです。
 やがて夢の中ではつぼみがふくらみはじめました。
 鉢は、ある日は、大洋を航海する帆船の船室に、ある日は奇妙な寺院の飾り壁の上にと場所を変えました。そのたびにアリシアは見たこともない土地を旅することができたのです。
 そして鉢が白亜の宮殿の一番高い塔の窓辺に置かれていた日、とうとう花が開きはじめました。水晶のように透きとおった薄い花びらは、昇る朝日に照りはえて、真紅、バラ色、あかね色、ワインレッドと微妙な色の変化を見せました。そして花びらが開くにつれてガラスの鈴が鳴るような涼しい音色が聞こえました。
 これが船乗りの老人が言っていた〈夢の花〉なのです。こんな美しい花はおそらく夢の外の世界には存在しないでしょう。これを見ることのできるのは、あの緑の種を手にいれた人だけなのです。それからの数日間、〈夢の花〉が咲いているあいだに訪れた夢の中の町々は、言葉にできないほどのすばらしいところでした。
 しかしやがて〈夢の花〉も枯れるときがきました。花びらが輝きを失い、ひび割れのような細かい線がはいったかと思うと、パッと飛び散ってしまいました。その瞬間、アリシアは目を覚ましました。そして、とても悲しい気持ちになりました。おそらくもう、あの鉢植えの花といっしょに夢の中の土地を見てまわることはできないでしょう。
 ベッドから出て、おそるおそる鉢を掘りかえしてみました。やっぱり種はしおれて黒く変色していました。その時ふと気がつきました。何かが土の中から顔を出しています。つまみあげてみると、それは紫色の種でした。新しい種ができたのです。アリシアは大声をあげたいような気分になりました。今度はいったいどんな旅に連れていってくれるのでしょう。
              □おわり□

【初出】横須賀基督教社会館 幼児グループ
    うさぎぐみ卒園文集『おもいで』
    No.15(1988/03)

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