糖蜜井戸の話
さとう@Babelkund
1 糖蜜井戸の謎
マッド・ティーパーティの中でヤマネが語る「糖蜜井戸の中の三姉妹」の話がある。その箇所を会話部分だけ抜き出してみよう。ヤマネ「むかしむかし、小さな三姉妹がいました。名前はエルシー、レイシー、ティリー。三人は井戸の底に住んでいました」
アリス「その子たちはなにを食べていたの」
ヤマネ「糖蜜だよ」
アリス「そんなわけないわ。具合が悪くなってしまうもの」
ヤマネ「その通り。とても具合が悪かったのさ」
アリス「でも、その子たちはどうして井戸の底なんかに住んでいたの」
ヤマネ「そこは糖蜜井戸だったのさ」
アリス「そんなものないわ!」
ヤマネ「おとなしくできないんだったら、きみが話のかたをつけたらどうだい」
アリス「むりよ。どうぞ続けて! もうじゃましないから。そういうのもあるかもね」
ヤマネ「そういうのがちゃんとあるんだ! そして、この小さな三人の姉妹たちはね――ドローイングの勉強をしていたのさ」
アリス「なにをドローしてたの」
ヤマネ「糖蜜さ」
アリス「分からないんだけど、どこから糖蜜をドローしたの」
帽子屋「水は水の井戸からだろう。だから糖蜜は糖蜜井戸からに決まってる――そうだろ。頭が回らないのか?」
アリス「でも井戸の《中》にいたのよね」
ヤマネ「そうだよ。その子たちは、いと深くにね」
この答えで、かわいそうなアリスは頭がこんがらがってしまいました。
この箇所には少なくとも二つの謎がある。
謎の一つは《糖蜜井戸》の存在である。
マーティン・ガードナーは『新注 不思議の国のアリス』の中で、糖蜜井戸(treacle well)がキャロルの時代にオックスフォード近くのビンゼーに実在しており、現在もあるという情報を提供されたと記している。ここでいうtreacleは《糖蜜》ではなく古語の《毒消し薬》のことである。だが後者の意味は廃語になっている。キャロルはあくまでも《糖蜜井戸》のヒントとしてこの知識を利用したと考えられ、アリス・リデルはtreacle wellの存在を知っていたかもしれないが、キャロルが一般読者にこの知識を要求していたとは考えられない。あくまでも「楽屋落ち」と見るべきだろう。手塚治虫もトキワ荘時代の作品では、トキワ荘にいた仲間にしか分からない「楽屋落ち」を使っているそうで、一般読者にそれが分かるとは思っていなかっただろう。甘い糖蜜に浸かっている小さな女の子たちのイメージだから、話が面白くなるのである。
アリスとヤマネの言い合い:「そういうのもあるかもね」(I dare say there may be one.)、「そういうのがちゃんとあるんだ!」(One, indeed!)は有無・数を議論しているのではなく、アリスが不定代名詞として使ったoneを、ヤマネが数詞にすり替えている言葉遊びである。
もう一つの謎はアリスの「でも井戸の《中》にいたのよね」(But they were in the well.)に対するヤマネの答え「そうだよ。その子たちは、いと深くにね」(Of course they were well in.)の解釈である。
「in(前置詞)the well(名詞)」を同じ単語を使って「well(副詞または形容詞)in(副詞)」に言い換えて、アリスの混乱を誘っているわけで、通常はwell(十分に)in(中に)の意味で「いと深くに」などと訳されている。だが、これでは「井戸の中に」を「いと深くに」と説明しているだけで、その答えでアリスが混乱するとは思えない。回答にも、言葉遊びにもなっていない。「well in」には別の解釈もあるのではないだろうか?
well inは、通常well in with〜の形で、「〜と仲がいい」という意味で使われることがある。この場合、姉妹同士なのでwell in with each otherまたはwell in togetherの意味でwell inを使ったとは考えられないだろうか(文法的に無理があるかもしれないが)。訳すとしたら「いと仲良くね」といったところか。
もうひとつの解釈は、wellを形容詞とみて「健康で、病気が治って」の意味でとらえ、「(井戸の)中にいると体の調子がいい」とすることもできる。訳はむずかしいが「そこはなかなかいいのさ」といったところか。
ヤマネがこうした三通りに解釈できる答えを返したので、アリスは混乱したのではないだろうか? すべて盛り込むとしたら「そうだよ。その子たちがいるのは、真底深くで移動はなかなかかなわなかったけど、三人はいと仲良くて、そこではなかなか体のぐあい良かったのさ。」といったところか。あなたはどう思いますか?







