レン君の素敵な形容詞入れ

Cousin Len's Wonderful 
Adjective Cellar 

ジャック・フィニイ 
さとう@Babelkund訳 

 レン君が質屋の店先で素敵な形容詞入れをみつけました。彼は二番街にある数軒の埃っぽい質屋によく足を運びます。そうすることが〈ネイチャー〉紙からの息抜きになるのだ、というのが彼の弁です。いとこのレンは〈ネイチャー〉紙の仕事が大嫌いです。彼は毎日のほとんどの時間を、自分が書いている《森の魅力と知識》の取材のため戸外で過ごします。配管工のほうがまだましだと彼は言っています。
 それで、ひまがあると質屋を見て回り、立体鏡セット(一八九三年シカゴ万国博風景)だとか、時を打つ懐中時計だとか、口が楊枝入れになっている陶器の馬だとかを家に持ち帰るのです。妻と私は、そういった品物を手放しでほめます。私が退役してから、自分たちのすまいがみつかるまでということで、ずっといとこのレンといっしょに暮らしています。
 それで形容詞入れもふたりしてほめました。それは消火栓のような優雅な輪郭でしたが、いくぶん小さく、白鑞(しろめ)でした。私たちはそれを塩入れだと思いました。レン君も同様です。それがほんとうは形容詞入れであるということを、彼は、それを買ったあとのある日、自分のコラムの原稿を書いている最中に発見したのです。
 彼はつぎのように書いていました。「仙境のような森の、宝石をちりばめた枝々は、葬儀の日のごとく静かです。冬の冷たい、鋼のような手が、夏の日の青々とした枝々のささやきをおさえているのです。そして、虹を浴びたような無数の鳥たちの、笛の音に似た銀色の声も今はありません」
 ここまで書いて、彼は何気なくペンを置きました。そして例の塩入れを調べ始めました。両手で持ってひっくりかえし、底を見て製造元のマークを探しました。蓋は原稿から一インチほど離れていました。やがて彼は自分の原稿が変わっているのに気づいたのです。
 こう書いてありました。「  森の  枝々は  静かです。冬の  手が  枝々のささやきをおさえているのです。そして、  鳥たちの  声も今はありません」
 レン君は頭がきれるので、もうそれを見ればどう使うかわかります。彼は仕事にもどり、いつものように書き上げました。ただし自分のコラムの二倍の長さにしたのです。それから形容詞入れを使用しました。磁石のように前後に動かしながら、行を追っていきます。すると形容詞と副詞が、まるで掃除機に吸われる糸くずのように、小さな音をたてて紙面から吸い取られたのです。その作業を終えると記事はちょうどよい長さになり、しかも今までにないほどきびきびして鮮明な文章になりました。初めて、自分のコラムが何かを伝えているように思えました。妻のルイザは、それを読んだら読者は森に行ってみたくなるでしょうと言いましたが、レン君はそんなにはよくないと思いました。
 それ以降、レン君は記事を書くたびにその形容詞入れを使いました。実験の結果、つぎのようなことがわかりました。紙面から一インチ離せばどんな重い形容詞でもすべて吸い上げる。一インチ半離せばちょうど中ぐらいの重さの形容詞を、そして二インチでは三、四文字の形容詞だけ吸い上げるのです。慎重にそれを扱うことによって、レン君は日増しに読者のふえている〈ネイチャー〉紙のいくつかのコラムを執筆することができました。「人物死亡欄と並んで、紙面中で最良の読み物」と、ある老婦人が彼に手紙を書いてきました。その婦人が何を言いたいのか、レン君は私に説明してくれました。つまり、人物死亡欄のとなりに印刷されている彼のコラムは全紙面中でまさに最良の読み物です、ということなのです。
 レン君は、形容詞入れの中身をあけるときはいつも私たちが帰宅するのを待っていてくれます。私たちはそれに居合わせるのが好きなのです。形容詞入れが一週間たっていっぱいになると、レン君はネジ蓋をはずして、ケチャップ瓶でも扱うように底をぽんぽんと叩き、二番街を見下ろす窓から外へ中身をあけるのです。するとそこで形容詞と副詞はそよ風につかまり、ほとんど透明な紙吹雪の雲のように車道と歩道の上へと漂っていくのです。それはどことなく、最も薄いセロファンをつなぎ合わせて作った、スープ用英字パスタのミニチュアのように見えます。ちょうどよい具合に光が当たらない限り、それらはまったく見えませんし、ほとんどのものが無色です。でも、やわらかなパステルカラーのものもいくつかあります。たとえば、「ひじょうに」は淡いピンク、「みずみずしい」はもちろん緑、そして「疑う余地のない」はくすんだ灰色。それから、〈ネイチャー〉紙がいやでたまらないときにレン君が使うお気に入りの言葉がひとつありますが、それはタバコのパッケージの上のほうに巻いてある真っ赤なセロファン・リボンの切れ端に似ています。この言葉は、家庭向けの本には載せられません。
 たいていの場合、形容詞と副詞はそのまま道路わきの溝や街路に落ちて、路面に触れると同時に雪片のように消えてしまいます。しかし時として、幸運にも、それが会話の中にまっすぐ落ちていくことがあります。
 ある日ゴーマン夫人がデリカテッセンからの帰りに、ミラー夫人といっしょに私たちの窓の下を通りかかりました。そのとき、形容詞と副詞をともなった小さな突風が、彼女のおしゃべりのまっただ中に吹きこんだのです。彼女はこう言いました。「物価は、穏やかなきょう日、はかなげで卓越していて、まったくひどいものですわねえ。私の言う熱狂的なことを聞いてくださいな。状況はひたすら著しく、きらめく不屈の寓話的な悪化を続けているんですのよ」
 ゴーマン夫人は、もちろんびっくりしましたが、堂々ともったいぶってミラー夫人にほほえみかけ、優雅に切り抜けました。彼女はつねづね、自分の祖先は王侯だと主張していましたが、今度は祖先が詩人でもあったと公言しています。
 形容詞を貯め、きれいにラベルを貼った瓶か缶に詰めて、広告代理店に売ったらどうだと、レン君に提案したことがあります。しかしレン君は、一生かかっても需要量に応えられないという点を指摘しました。それでも私たちは数個の靴箱いっぱいに貯め込んで、ワシントンへの観光旅行に持っていきました。向こうに着くと、上院の傍聴桟敷で、議員席全体に吹きおろす巨大な扇風機に向かって慎重に箱の中身をあけました。それは大きな雲のように広がると、大議論の只中にひらひら落ちていきました。しかし、このときは何かがうまくいかなかったに違いありません。事態はこれっぽっちも変わったように聞こえなかったのですから。
 私たちは今でもこの素敵な形容詞入れを使っています。そしてレン君のコラムは日増しによくなっています。つい最近、彼の記事を集めたものが本になって出版されました。あなたもたぶん読んでいるでしょう。映画化権が売れるという話もあります。レン君の形容詞入れは電文を書くときにも役立つことがわかりました。それから、この話を書くときにも、おおかたは一インチ半の高さにして使いました。この話が短いのも、もちろんそのためです。

 RETURN