氏家六郎のフィールド・ノート 卯の頁

  兎穴伝説

「やっと獲物をみつけた狩人は、その兎を追って山の中に入って行っただ。すると兎は穴の中に逃げ込んでしまっただと」奥地の山村にフィールド調査に来た民俗学者、氏家六郎と助手のアマネは囲炉裏の前で宿の主の昔語りに耳を傾けていた。
「獲物を逃すまいと、狩人は切株に腰をおろして兎が穴から出てくるのをじっと待っていた。そのうちに男はうつらうつらしてしまったんだ。ふと目を覚まして、まだ兎が穴の中にいるか確かめようと、穴に頭をつっこんで中を覗き込んそのとき、誰かに背中をどんと押され、男は井戸のようになった穴の中に落ちてしまった。深い穴の底で、どうやって上にあがろうか考えているうちに、足元が濡れてきたんじゃ。水かさはどんどんに増してゆき、ついに首まで水につかってしまった。恐ろしいことに近くで鼠の鳴き声まで聞こえた。必死になって穴のまわりの木の根をつたってようやく穴から這い出すと、目の前に人が立っていた。それは山奥にはふさわしくないきちんとした身なりの娘っ子だった。自分を穴に突き落としたのはお前かと問いただすと、突然、娘の目が真っ赤に燃え、口が耳まで裂け、首がするすると蛇のように伸びて男に向かってきたんだと。かっと開いた口の中に鋭い歯が見えたとき――狩人はほんとうに目を覚ましたんじゃ」宿の主は言葉を切ってニヤリと笑った。アマネは脱力感を覚えた。
「肝をつぶした狩人は、もう兎のことはあきらめて山を駆け下り、野良仕事をしていた男をつかまえて、夢の話を聞かせたそうな。すると農夫はほっかむりをとりながら言ったんだ。『その娘はこんな顔だったのかい』――あの古い兎穴の言い伝えはそこまでだ」話しながら囲炉裏の火を掻き起こしていた宿の主は、頭を上げてアマネのほうを見た。その顔は――
 アマネは全身に汗をかいて夢から覚めた。「どうやら昨晩の宿の兎鍋が当たったようだな……」

  【初出】謹賀新聞 第二三号(2011年1月1日発行)

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