桜の樹の下には
月の光がまぶしい夜、公園のベンチで夜空をながめていると、白いイヌを連れた老人がやってきて、となりに腰をおろした。大のイヌ好きの僕は、
じゃれつくイヌの頭をなでながら老人と話をした。そのうち老人が、少しこのイヌを散歩させてみないかと言い出した。
その申し出を受けた僕は、引き紐をもって公園の中をぶらぶら歩いた。ふいにイヌが道のわきの桜の樹の根元を掘り始めた。土の中から出てきたものは、
こんなところに埋まっているはずのないものだった。それは去年の夏、友達と海に行ったとき波にさらわれてもどってこなかったフリスビーだった。
マジックで書いたみんなのいたずら書きに見覚えがある。過ぎし日の思い出にひたっているうちに、それは手の中で銀色の霧となって消えてしまった。
ベンチにもどってその話をすると、老人はこう言った。「このイヌは思い出を掘り出してくれるのですよ。あなたも私ぐらいの歳になると、
きっとこういうイヌを飼うようになるでしょう。その時のために、今からいい思い出をたくさん作っておくことですね」
そして、老人とイヌは月の下の白い道を去っていった。
【初出】謹賀新聞 第七号(1994年1月1日発行)