<コーンウォール物語 第四話>
 三十人とひとり
   THE THIRTY AND ONE

デイヴィッド・H・ケラー
さとう@Babelkund訳

 《黒森》にある領地ウォーリングの領主セシルは、炉のかたわらで物思いにふけっていた。盲目の《歌い手》はいにしえの時代のサーガを歌いおわって、賞賛の言葉を長いこと待っていたが、やがて愛犬にひかれ、不安な面持ちで宴の広間を退いていった。《曲芸師》は楽しげに、金色の玉を次々と宙に投げ上げて、まるできらきら輝く滝のように見せたが、領主はまだ物思いに沈んでおり、見てはいなかった。賢い《ホムンクルス》は、領主の足元にうずくまって、名言を口にしたり、ゴビ砂漠や砂に埋もれた都市アンコールの物語を語ったりしていた。しかし、何ものも領主を瞑想から引き離すことはできなかった。
 ようやく彼は立ち上がると、銀のベルを金のハンマーで鳴らした。その呼び出しに応えて使用人たちが現れた。
「アンジェリカ姫とグストロ卿を呼べ」彼はそう命じると、ふたたび座って、手に顎をのせて待った。
 彼の召喚に応えてやっとふたりがやって来た。姫は彼のひとり娘であり、ウォーリング中のすべての貴婦人と同じように美しく聡明だった。ガストロ卿は、いつの日か彼女の夫となり、彼女が《黒森》を支配するのを助けることだろう。彼のほうは、大剣やリュートの扱い、鷹狩り、図書学に熟達していた。身の丈は六フィート、歳は二十歳で、一人前の男になる素質を持っていた。
 三人は炉を囲んで座り、ふたりは、もうひとりが話すのを聞こうと待っていた。そのひとりは、言わなければならないことをどのように言ったらいいかはっきりするまで待っていた。ようやくセシルは話しはじめた。
「わしの中で気にかかっているのが何か、おまえたちもおそらく分かっているな。長年にわたって、わしは幸福と平和と繁栄を、わがウォーリングの地の素朴な民にもたらそうとしてきた。われわれが暮らすこの谷間は、通り抜けることのできない深い森に囲まれた要害の地だ。ただ一本の山道だけが、周囲の広大で危険でほとんど未知の世界とわれわれとをつないでいた。その世界へは、春と夏と秋に、穀物とオリーブとワインと宝石の原石を積んだラバの隊商を送っていた。その世界からは、塩と武器と毛織物と絹織物とを運んできた。だれもわれわれに危害を加えようとはしなかった。欲しがるようなものをほとんど持っていないからだ。たぶん、安全であることが、われわれを穏やかで静かで危険に備えのない人間にしてしまったのだ。
 だが、あれがやってきた。外の世界には、われわれの知らない、それゆえ想像すらできない物事があるということを、われわれは知ることができただろうに。だが、この春に最初の隊商が山々を巡って行って、《黒森》のはずれで、行く手をさえぎる《城》を見つけたのだ。ラバどもは翼をもつ鳥ではないから飛び越えることはできず、モグラではないから穴を掘って進むことはできなかった。それに、ラバを連れた男たちは戦士ではないから、打ち破って進むことはできなかった。それで、彼らはもどってきた。危害は受けなかったが、品物は売れず、物々交換もできなかった。
 さて、あの《城》だが、魔法で建てられたとは思わん。わしもこの目で見てきたが、石と漆喰の塊にしか見えなかった。それに、軍隊に守られてもおらず、聞きおよぶ限りでは、男がひとりで守っているとのことだ。しかし、何という男だ! 身の丈はもっとも壮健な若者の一倍半はあり、さまざまな武器を使いこなしている。わしはそやつを試してみた。やつのもとに次々と勇者を送ったのだ。宙を飛ぶ斧のジョンに、諸刃の剣では並ぶ者なきハーマンに、鋼の矢先で百歩離れた柳の小枝を真っ二つにできるルービンだ。これら三人の男たちは、あの城の下の谷に横たわり、蛆虫の餌になっている。そうこうする間に、交易に関する限りでは、わが国は窒息させられている。牧草地には家畜がおり、森には樹木があり、倉には穀物がある。しかし、われわれには塩がない。寒さから身を守ってくれる衣服がない。女たちのための飾り物がない。男たちのための武器がない。この城と男が隊商をはばむ限り、決してこうした品物を手に入れることはできないだろう」
「《城》を攻略し、巨人を殺すことができます!」グストロ卿が、若者らしい激しさをむきだしに、大声で言った。
「どのようにして」と領主がたずねた。「山道は狭いということを言わなかったかな。知っておろう。片側では山々が鳥が飛び立つように険しく、女の肌のように滑らにそびえている。もう片側には《悪霊の谷》があり、落ちて生きてもどった者はいない。ただ一本の道は、人ひとり、あるいは人に引かれたラバ一頭が通れるだけの幅しかなく、その道はいまではあの城に通じている。もし軍隊を送ることができるなら、話は別だ。しかし、われわれが送ることができるのは一度にひとりだけであり、ひとりでこの巨人と互角に戦うことのできる者はおらん」
 アンジェリカ姫が笑みをうかべながら小声で言った。「策略を使えば巨人に勝てるかもしれません。ほら、以前この広間いっぱいの戦士たちと美しい貴婦人たちが、金色の玉が次々と宙を飛んで《曲芸師》の巧みな手のなかにもどるのに目を奪われ、あたかも終りのない眠りにおちいったかのように魅了されたことがありました。また、盲目の《歌い手》は、彼の歌う物語のほかはすべて忘れさせることもできます。また、私たちのホムンクルスはとても賢いです」
  領主はかぶりを振った。「そのようにしても、問題は解決しないだろう。かの狂人はひとつのことを望むだろう。そして、ひとつのことというのは、われらの土地と人民に関する限り、結局なにもかもというのと同じだ。たぶんそなたは察しているだろう。そなたがその問いかけをする前に、わしからそなたに強く求める。結婚の承諾をせよ。さすれば、わしが死んだとき、あやつがウォーリングの領主となろう」
 アンジェリカ姫はグストロ卿のほうに目をやった。彼は領主の娘を見た。ついに彼は口を開いた。
「わが国の穀物を食べ、わが国のオリーブを食べ、わが国のワインを飲むほうを選びましょう。男たちが熊の毛皮をまとい、女たちが鹿革で身を被うほうを選びましょう。アラビアからもたらされた一角獣の皮の履物よりも木靴をはくほうが、人びとにとって最良のことでしょう。わが国の森に咲くスミレやサンザシの花をしぼった香水をからだにつけるほうが、東洋の見知らぬ島の木々からとった香水で匂いをつけるよりも、人びとにとって甘い運命でしょう。この犠牲は高くつきすぎます。われらの祖先や、そのまた祖先たちが暮らしたように暮らしましょう。たとえサルの群れのように木に登って暮らすことになっても、そんな領主についていくよりはましです。それに、わたしはアンジェリカ姫を愛しています」
 姫は感謝の笑みを浮かべた。「私はまだ、腕力に打ち勝つのに知力を役立てることを考えています。ウォーリングには智恵は残っていないのですか。あるのは、か弱い女の美しくて儚い夢だけなのですか」
「ホムンクルスを呼びにやろう」姫の父親が言った。「彼ならその問の答を知っているかもしれない」
 その侏儒が入ってきた。彼は女の腹から生まれたのではなく、七年かけて玻璃の壜のなかで育てられたのだ。そのあいだ中、賢者たちによって目の前に支えられた書物を読み、ワインの滴と不凋花アスフォデルの丸薬で滋養を与えられていた。彼は問題に真剣に耳を傾けたが、時おり眠っているように見えた。やがて、彼はひとつの言葉を口にした。
「統合化」
 セシルは手をのばして彼をつまみあげると、自分の片膝に乗せた。
「わしらを哀れんでくれ、《賢者》よ。わしらは素朴な民にすぎず、素朴な言葉しか知らない。その賢明な言葉はどういう意味なのだ」
「わかりません」と奇妙な返事がかえってきた。「それは、過去から私の頭にもたらされた言葉にすぎません。甘い響きがあり、思うに、何か意味があるのかもしれません。待ってください。いま思い起こします! 私が玻璃の壜のなかにいたときのことです。ひとりの賢者がやってきて、私の目の前に彩飾された羊皮紙をかかげました。そこに金色の言葉で書かれていたのが、この言葉とその意味です。
 統合化。すべてのものはひとつ、ひとつのものはすべて」
「それでは、わしにはなおさら難しくなっている」ウォーリングの領主は溜息をついた。
 アンジェリカ姫は席を立つと、父親のほうに近づいた。彼女は父親の足元に敷かれた熊皮に膝をつくと、侏儒の小さな手を取った。
「教えて、ホムンクルスさん。彩飾された羊皮紙に書かれたお告げを、そうやってあなたに伝えたのはどこの賢者だったの」
「とても賢い方で、とても年とった方でした。さらさら流れる小川のそばの洞窟にひとりで住んでいます。毎年、素朴な民がそのお方のところにパンと肉とワインを持っていっていますが、ここ数年、お姿を見たものはいません。生きているかもしれません。死んでいるかもしれません。わかっているのは、その食べ物がなくなるということだけです。でも、鳥たちはこう考えるかもしれません。ここ何年ものあいだ彼は目も見えず、考えることもせずに石のベッドに横たわっているのだから、それは自分たちのものだと」
「これはわれわれが自分で確かめるべきことだ。グストロ卿、馬を用意させろ。われわれ四人でこの者の洞窟に行くのだ。われわれには三頭の馬を。そして、この小さな友人には、怪我をしないように柔らかい鞍椅子を」
 四人は洞窟にやってきた。そして四人は中に入った。突き当たりで明りが燃えており、賢者がいた。ひじょうに年をとっており、彼の両眼だけが決して年とることのない知性の

存在を物語っていた。彼の前にあるテーブルの上はめちゃくちゃだった。いくつもの玻璃の器や陶器、るつぼ。それに天体観測儀、蒸留器、砂時計。砂時計のなかを銀砂が流れ落ちていた。これは精巧なからくりで調整されていて、毎日くるりと回って、繰り返し砂に二十四時間の経過を告げさせるのだった。積まれた書物は、白黴で汚れた革表紙に被われ、鉄製の南京錠と蜘蛛の巣で封じられていた。濡れた天井から下がっているのは、いくつもの惑星を従えた太陽の模型だった。惑星はその明るい天体の周りを永遠に回り続け、一方、あばたのある月は明暗を繰り返していた。
 そして賢者は、遠い昔に滅びた民の文字で綴られた書物を拾い読みしていた。時々は堅いパンのかけらを食べ、牡羊の角からワインを啜っていたが、決して読むことをやめなかった。注意をひこうとして、彼らが賢者の肩に触れたとき、その手を振り払って、ぶつぶつとつぶやいた。「七匹の聖なる毛虫にかけて! このページを読み終らせてくれ。数千年前にアンコールでこの男が何を書いたか、知らずに死んでしまったら、わしにとってこれほど残念なことはない」
 しかし、やっとそのページを読み終っても、彼は座ったまま、そのミイラのような顔のなかに落ち窪んだ理知的な目を四人に向けてしばたたかせるだけだった。体は老衰で震えていた。そこでセシルが彼にたずねた。
「『統合化』という言葉は何を意味しているのだ」
「それはわしの夢だ。いまならば目覚めているときの意味がわかる」
「その夢のことを話せ」領主が命じた。
「ただの夢だ。想像しなされ。三十人の賢者がおる。彼らは古代の書物を読んであらゆる英知を学んでいるとする。錬金術、魔術、歴史、哲学。これらの者たちは動物や、真珠雲母、金緑石のような宝石について知っており、植物についても知っている。たとえば、傷を治すというディタニー、眠りにおちいらせるというマンドラゴラ(わしには、読むものがたくさんあり、読書によって得るものがたくさんあるというのに、どうして眠りたがるのか分からんが)。だが、これらの者は年とり、やがては死ぬであろう。そこでわしは、この三十人の年寄りと、ひとりの若者を連れてきて、わしが何年もかけて蒸留してきたワインを飲ませる。こうして統合化により、たったひとつの体になるだろう――その若者の体に――。だが、その者の脳のなかには、三十人の学者たちの複雑で年月を経た英知のすべてがある。このようにして何世紀も何世紀も続ければ、いかなる英知も世界から失われることがないのだ」
 アンジェリカ姫は彼の肩に身を寄せた。「それで、そなたはこのワインを作り上げたのですか」とたずねた。
「はい。そしていまはその逆に働くものに取り組んでおります。このひとつになった体をもう一度元の三十に分ける術を知らずに、三十の体をひとつにすることができましょうか。ですが、それは難しい。なぜなら、どんな愚か者でも三十の壜からひとつの甕にワインを注ぐことはできる。だが、それを分けて元の壜にもどせるほど賢い者がおりましょうか」
「この統合化の魔法のワインを、そなたは試したことがあるのか」と領主がたずねた。
「少しは。カラスとカナリアをつかまえて、それを飲ませてみた。そしていま、あそこの小枝を編んだ籠のなかに黄色いカラスがとまって、夜ごと、わしの洞窟を歌で満たしている。まるで妖精の国のリュートとシターンを奏でているかのようにな」
「それでは、私の考えを言いましょう」とアンジェリカ姫が大声で言った。「私たちは、国でもっとも優れていて勇敢な戦士たちを連れてきます。それに、もっとも美しい声の歌い手に、黄金の玉を操る最高の曲芸師も。彼ら三十人と、それから私自身が、この統合化のワインを飲みます。こうして、三十人は私の体のなかに入りこみます。それから私はあの巨人を訪ねて行きます。巨人の広間で私がもう一方のワインを飲めば、ひとりに対して戦う者が三十人いることになります。彼らはあの者を打ち負かし、殺すでしょう。それから、私はもう一度、あの生命のワインを飲み、三十人の勝利者たちを私の体に入れて運び、ウォーリングまでもどります。たどり着いたらもう一度ワインを飲めば、三十人の者たちは驚異のワインによって解放されて、私の体から出てくるでしょう。何人かは死に、何人かは傷を負うかもしれません。でも、私は無事であり、われらの敵は殺されます。そなたは十分な量のワインを持っていますか――両方の種類について」
 老人は困惑しているように見えた。
「統合化のワインは大瓶一杯ある。もう一方の、統合化した者を元の体にもどすワインは、一回の実行に足りる量しかない。たぶん、数滴しか残らないだろう」
「その数滴をあの黄色い鳥に試してみよ」とセシルが命じた。
 老人は純金製の壜から無色の液体を数滴流し出した。壜に刻まれているのは、自らの尾を飲み込んで永遠に若さをよみがえらせている長虫の絵だった。その液体を籠のなかの黄色い鳥に与えた。これを鳥はむさぼるように飲むと、突然、そこには二羽の鳥、黒いカラスと黄色いカナリアがいた。そしてカナリアが歌を奏でるより前に、カラスがカナリアに襲いかかって殺してしまった。
「まちがいなく効く」老人はうめくように言った。「まちがいなく効く」
「二番目の霊薬をもっと作ることができるのか」とグストロ卿がたずねた。
「一度作ったものは、二度作ることもできる」老人は自信をもって言った。
「それでは着手せよ。もっと作るのだ。そうしているあいだに、われらはこの黄金の小壜と大壜を持っていって、黒き森の素朴な民を救うために何ができるか考えることにする。だがこれは考えも及ばないような冒険である。我が愛する女ひとりにとっては危険に満ち満ちているものだからな」領主はそう言った。
 そして、ふたつの霊薬を安全な場所に収めた一行は馬に乗り、老人の洞窟を後にした。するとグストロ卿は領主をわきに呼んで言った。
「お願いがあります。私が三十人のひとりになることをお許しください」
 セシルはかぶりを振った。「だめだ。どんなことがあろうと、だめだ! これを実行することで、わしは最愛の者を失うかもしれない。そして、もし娘が帰ってこなかったら、わしは悲しみのあまり死ぬだろう。そうしたら、そなたが、そなただけが残ってわが素朴な民のことを気遣うことになろう。もし二本の矢しか持っておらず、一本を放ってしまったら、必要になる日に備えてもう一本を矢筒にいれてとっておくのが賢明だ」
 アンジェリカ姫は、彼らのひそひそ話の理由を推察して笑った。
「私はもどって来ます」と彼女は笑いながら言った。「あの老人はとても賢いのですから。あの黄色い鳥が二羽に分かれて、カラスがカナリアを殺す様子をご覧にならなかったのですか」
 ところが、セシル卿の両腕に抱えられたホムンクルスが、泣き叫び出したのだ。
「いかがしたのだ」と心優しい領主がたずねた。
「わたしの壜のなかにまたもどりたい」と侏儒はすすり泣きながら言った。そして、軍馬の緩やかな駆け足で心地よくゆすられて眠りにおちるまで、すすり泣いていた。
 二晩の後、勇敢な男たちの一団が宴の広間に会した。大柄で寡黙な男たちで、鎚矛や鎖帷子や飾帯の扱いに慣れており、剣や槍や両刃の戦斧で殺戮ができる者たちだった。あの《曲芸師》もその場にいた。それに《歌い手》と、まだ若いがとても賢い《書物の読み手》。そしてもうひとり、光る目を持つ男がいた。彼は一瞥で人を死のように深い眠りに落とし、指を鳴らして目覚めさせることができた。そうしてこれらに加えて、領主とグストロ卿とぶるぶる震えているホムンクルスと、自分の椅子に腰をおろしたアンジェリカ姫がいた。彼女は自分が役割を担った大冒険のゆえに、美しく輝き、とても幸せそうだった。その手には黄金のゴブレットがあり、三十人の男たちの手には水晶のグラスがあった。三十とひとつの器は、統合化のワインで満たされていた。大瓶の半分が注がれたのだ。だが、半分残った大瓶と黄金の薬酒とは、アンジェリカ姫がきらめくローブの下に隠していた。屋外では、ダイヤモンドの鋲をちりばめた馬具で飾られた姫の馬が、月光の下で不安げないななきをあげていた。
 セシル卿は冒険について説明した。三十人の男たちはみな身じろぎもせず厳粛な面持ちで座っていた。それは前代未聞のことだった。男たちはだれもふつうの死を恐れないが、この溶け込みは、最強の勇者にすら結末がどうなるのだろうかと考えさせる代物なのだ。それでも、刻限が来て命令が下されると、誰も彼もみな酒盃を飲み干し、姫君が自分のワインを飲んだときには、最後の一滴まで飲んでいた。
 それから静寂があった。それを破るのは、《黒森》の夜の民の所業について月に不平を言うフクロウの鋭い鳴声だけだった。小さなホムンクルスは領主の肩で顔を隠していたが、セシルとグストロ卿は何が起こるのかを確かめるために、大食卓ごしに眼前をまっすぐ見据えた。
 三十人の男たちは、彼らを被う霧のなかで身震いして、それから縮んでゆくように見え、最後に空の席だけが大食卓に残された。それと空のグラスが。ふたりの男とアンジェリカ姫と身震いしているホムンクルスだけが残っていた。姫は笑った。
「うまくいったわ」と彼女は大声で言った。「私は前と同じように見えるけど、でも私は前と違って感じます。私の中には、これから巨人を打ち負かしてこの国に平和をもたらす、三十人の勇敢な男たちの潜在的な体があるのですから。それではみなさんに出会いと別れのキスをして、待っている馬の背に乗り、勇んで出掛けましょう」父の口にキスをし、恋人の頬にキスをし、侏儒の縮れ毛の頭にキスをすると、彼女は勇ましく部屋から走り出た。静寂を通して、彼女の馬が銀の蹄鉄

をつけた蹄で中庭の敷石を打って進む音が聞こえた。
「わたしは恐ろしい」と侏儒が震える声で言った。「わたしはあらゆる知識を持っている。だがこの冒険とその結末については恐ろしい」
 セシル卿が彼を元気づけた。「そなたが賢すぎるから、恐ろしいのだ。グストロ卿とわしは恐れたくとも、そうするには愚かすぎるのだ。そなたを元気づけるために何かできることがあるか、小さき友よ」
「わたしの壜のなかにもどりたい」ホムンクルスはすすり泣きながら言った。「でも、それはできない。わたしが壜から取り出されるとき、壜は割られてしまったのだから。壜の口はとても細かったのだ。そしていったん割れた壜は元にもどすことはできない」
 一晩中、セシル卿は彼を眠らせようとして揺すり、子守唄を歌って聞かせた。グストロ卿のほうは、指の爪を焦がす炉火の前でまんじりともせずに座って、この結末がどうなるのだろうかと思いを巡らせていた。
 夜更けにアンジェリカ姫は《巨人の城》の城門にたどり着くと、花輪で飾った角笛を吹き鳴らした。巨人が鉄鋲を打った門扉を落とし、馬上の貴婦人を不思議そうに見つめた。
「私はアンジェリカ姫」と貴婦人は名乗った。「あなたの花嫁となるために参りました。私たちが外の広大な世界と交易できるよう、あなたが隊商を自由に通行させてくれさえすればいいのです。私の父が死んだら、あなたが私たちの国の領主になるでしょう。そして、もしかしたら私はあなたを愛するようになるかもしれません。あなたは立派な姿かたちをしていますし、あなたについてはたくさん聞いていますから。
 巨人の背丈は彼女の馬の頭よりもずっと高かった。彼は姫の腰に手を回して馬から引っぱり降ろし、宴の広間に運ぶと、食卓の一端に座らせた。彼はちょっと知恵の足りない者のような笑い方をしながら、部屋を歩いて回って、松のたいまつと長い蝋燭に火をつけた。ようやく部屋全体が照らし出された。彼は姫のために大きなグラス一杯のワインをつぎ、自分自身のためにさらに大きなグラスを満たした。彼は食卓の別の端に腰を降ろし、ふたたび笑いながら大声で言った。
「すべて夢見た通りだ。しかし、あの高貴なセシル卿と勇敢なグストロ卿がこんなに臆病だったとは、だれが考えただろうか! われらの結婚を祝って乾杯しよう。それから結婚式の間に進もう」
 そして彼は自分の飲み物を一気に飲み干した。だが、アンジェリカ姫はガウンの下から黄金の小壜を取り出し、それを掲げながら大声で言った。
「あなたとあなたの未来を祝って乾杯します。たとえそれがどのようなものであっても」そして彼女は黄金の小壜を飲み干し、じっと座っていた。霧が部屋にたちこめ、長い樫の食卓を囲む三十の柱状の影のなかで左回りに渦巻いた。霧が晴れると巨人と姫のあいだに三十人の男たちがいた。
 《曲芸師》が金色の玉を手にした。まぶしい目を持つ男が巨人をじっと見つめた。《学者》がローブから書物を取り出して、死せる神々の金言を逆向きに読んだ。また、《歌い手》は竪琴の弦をかき鳴らして、遠い昔に死んだ勇者の武勲を歌った。だが、戦士たちは突進して、あらゆる場所で戦闘を開始した。巨人は跳びすさると、壁から鎚矛をつかみ取り、これまでだれも見せたことのないような戦いをした。彼はふたつのことが念頭にあった。殺すこと、そして微笑む姫のところにたどり着いて、彼女が自分にしたことの仕返しに素手で絞め殺すこと。しかし、彼と姫のあいだにはいつも男たちの壁があった。武器と歌とまぶしい目を持った男たちが作り出した生きている壁は、曲げたり押しつぶしたりすることはできても、壊すことはできなかった。
 その後何世紀ものあいだ、ウォーリングの広間で、盲目の歌い手たちはその戦いを語り、素朴な民は黙って座り、その物語に耳を傾けたのだった。きっと、その物語が年老いた歌い手から次の若い歌い手に渡されるとき、それは飾りたてられ、誇張され、捏造されて、その夜実際に起こったこととはいくぶん違ったものになったことだろう。だが、アンジェリカ姫が折にふれて切れ切れに語った、本人による飾らない真実の話ですら、十分に偉大な物語だった。男たちは戦い、血を流し、その広間で死んだのだ。ついに、瀕死の巨人は突破して、姫に届きそうになった。しかしながら、《歌い手》が竪琴で彼をつまずかせ、《学者》が分厚い書物を彼の顔に投げつけ、《曲芸師》が三個の金色の玉を巨人の額にぶちまけ、とどめに、《眠りの紡ぎ手》の光る目が巨人の死にかけた目にじっと注がれ、彼を最後の眠りに送り出した。
 アンジェリカ姫はめちゃめちゃになった広間を見渡し、それぞれの役割を果たし終えた男たちを見た。それから静かに言った。
「なんと勇敢な者たちでしょう。彼らは自国のため、我が領土の名誉のために必要なことを成しとげた。私はこの者たちを見捨てたり、望みのないまま置いて行ったりすることはできない」
 彼女は残りの統合化のワインを取り上げて一部を飲み、それぞれの者に一口ずつ飲ませた。死者にも飲ませたが、息のない口にワインを流し込めるよう、その前にそっと口を開けて、食いしばった歯から血を拭きとってやらねばならなかった。それから席にもどり、そこに座って待った。
 霧がふたたび広間にたちこめ、死者と瀕死の者と、重傷は負っていないが激しい戦闘で息を切らせている者たちを包んだ。霧が晴れたとき、アンジェリカ姫だけがそこに残っていた。三十人全員、統合化のワインの魔法で彼女の体にもどったのだ。
 姫は独り言を言った。
「年とったように感じるし、いろいろと違って感じる。それに力が私の体から抜けてしまった。ここに鏡がなくてうれしいわ。私の白くなった髪や血の気のない頬を見なくてすむもの。私の中にもどった者たちが、死者や死んではいないが重傷を負った者だからね。気を失って倒れる前に、馬のところにもどらねば」
 彼女は歩き出そうとしたが、よろめいて倒れた。両手両膝をついて、馬が待っているところまで這っていった。体を鞍まで引き上げると、自分の飾り帯で体をそこに縛りつけ、それから家に帰るように馬に言った。あとは死人のように鞍に伏せて横たわっていた。
 馬は彼女を連れ帰った。侍女たちは彼女をベッドに運び、衰えた四肢を洗い、温かい飲み物を飲ませ、疲れきった体に子羊の毛の上掛けをかけた。博識な医師たちは彼女のために飲み薬を調合し、やがて彼女は十分に回復して、三十人が巨人と戦った物語を、いかにして彼が死に、国が助かったかを父親と恋人に話せるまでになった。
「さあ、あの老人のところに行って、もうひとつの霊薬を手に入れましょう」と彼女は小声で言った。「そして薬が効いたら、礼を尽くして死者を埋葬し、負傷者をていねいに精一杯手当てしてあげましょう。それで私たちは冒険の終りにたどり着くでしょう。そうして、《歌い手》がいくつもの冬の夜長にウォーリングの素朴な民に聞かせる冒険のひとつとなるでしょう」
「グストロ卿、そなたは姫と一緒に残ってくれ」と領主が命じた。「わしは賢いホムンクルスを腕でかかえて連れていく。そしてあの洞窟まで全速力で馬を駆って、霊薬を手に入れる。もどって来たら、それを姫に飲ませよう。そうすれば姫はふたたび元気になり、若さをとりもどすだろう。それから、愛し合うそなたたちふたりを結婚させよう。わしは前のように若くはなく、生きているあいだに王座が安泰なのを見ておきたいからな。それと、神々の思し召しがあれば、孫たちが城のまわりを駆け回るのも見たい」
 グストロ卿は姫のベッドのかたわらに腰をおろし、彼女のやせ衰えた手を自分の温かい手で取った。彼は姫の青白い唇に赤く温かい唇を重ねてキスをし、それからささやいた。「たとえ何が起ころうとも、たとえこの冒険の終りがどのようなものであろうとも、私はいつもあなたを愛しているよ、愛しい人」するとアンジェリカ姫は彼に微笑んで、それから眠りに落ちた。
 ウォーリングの領主セシルは、小さな賢者を腕のなかに抱えて、全速力で《黒森》を駆け抜けた。彼は軍馬から飛び降りると、急いで洞窟のなかに駆け込んだ。
「霊薬はできあがっているのか」と彼は叫んだ。
 老人はまるで、質問は何だろうと迷っているかのように、目を上げた。いまは荒い息づかいをしており、小さな汗の滴がなめし皮のような顔をつたい落ちた。
「ああ! もちろんじゃ! 覚えておる。姫君を救う霊薬だな。統合化の魔法の力で彼女の中に入れた男たちの体を、彼女から取り出す霊薬じゃ。覚えておる! わしはずっとそれに取り組んできた。あと数分でできあがるだろう」
 そして、樫のテーブルの上に突っ伏して老人は死んだ。倒れるときにしなびた手が黄金の小壜に当たり、それを床の上にひっくり返した。琥珀色の液体が長年積もったほこりの上に流れた。ゴキブリが来て、それをなめ、すぐに死んだ。
「わたしは恐ろしい」と小さなホムンクルスがうめくように言った。「わたしの壜のなかにもどれたらいいのに」
 しかし、ウォーリングの領主セシルは、どうやって彼を元気づけていいか分からなかった。

【初出】「ローラリアス」(vol.10、2008/8)

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